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vol.309-1(2006年 7月10日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
中田英寿選手の引退を惜しむ

 中田英寿引退−7月3日、思いもかけないニュースが飛び込んで来て、本当にびっくりした。W杯のブラジル戦に敗れたあと、1人でピッチの芝生の上にあおむけに倒れたまま、タオルを顔にあて泣いていたシーンを思い出した。他の選手が引き揚げたあとも、1人、長い時間横たわったまま、動かなかった。あのとき引退を最終的に決断したのだろうか。

 2010年のW杯南ア大会でも、当然、中田選手が日本チームの中心になると思っていたから、これは大変なことになった、というのが正直なところだ。

 引退発表が記者会見という形でなく、彼のホームページだった、というのが、いかにもマスコミ嫌いといわれた中田らしい、と思った。これは将来、スポーツ選手の取材のむずかしさを予感させる行為だ。不勉強で不正確な、ときにウソも混じる記事を書くジャーナリストの取材を受けるより、自分のナマの声をストレートに読んでもらえるホームページがあれば、それで十分。中田はそう考えていたように思う。これはジャーナリストにとって、はなはだ厄介な問題だ。これから、スポーツ選手の中にホームページ派がふえていくのではないか。既存メディアにとって、由々しき問題である。客観的取材、という基本が揺らぐからである。

 中田は完璧主義者、理想のサッカーと生身の自分のサッカーのズレ、落差に耐えられなかったのだ、という見方がある。それもまちがいではないだろう。スポーツの究極には、必ず「美」が顔を覗かせる。その「美」に対する感覚が、多分、選手を超一流か、並かに分けるのだ。技術、プレーの美、生きるスタイルの美、引き際の美・・・。体の強さ、荒々しさをもちつづけながら、そこに美があらわれる、というのが超一流の選手だ。W杯の3試合を見るかぎり、中田にはまだまだ体の強さ、荒々しさがある、と思ったので、「美」はなお深められるだろう、と楽しみにしていた。中田流の「円熟」とはどんなものか、それを期待するところ大であった。

 日本は今、人類が経験したことのない大長寿時代に突入している。コロンブスの大航海時代に匹敵するような、激変の時代である。大長寿時代の“新大陸”はどこにあるのか。そもそも“新大陸”とは何か、発見を迫られているといっていい。時代の困難はそこにある。

 “新大陸”のひとつは、まちがいなくスポーツというジャンルにある、と私は思う。そして、“新大陸”発見の旗手、トップランナーはイチロー、中田英寿、武豊、とひそかに思っていた。われわれ古い世代とはちがう、新しい「個」を感じさせるからだ。そういう彼ら3人が、現役として50歳までプレーしてくれないか、と願っていた。そのことが、実は、世の中を大きく変える、と思った。イチローはかねがね「50歳まで現役をつづけたい」と公言している。武豊もやれそうな気がする。問題は運動量がとりわけ激しく、ケガも多いサッカーで、中田がどこまでがんばってくれるかだ、と思っていた。

 誰もが80年を生きてしまう大長寿時代は、この3人が50歳まで現役でプレーしてくれることに、時代の大きなシンボリックな意味がある、と思った。それは、政治・経済のハードウェアの変化よりも、ライフスタイルというソフトウェアの変化を、目に見える形で示してくれることになるからだ。楽しみながら仕事をする、仕事をしながら遊ぶ、というスタイルだ。

 出生率1.25など少子化問題が騒がれているが、私はこれはそんなに心配していない。一時的混乱はあろうとも、性本能がある限り、振れすぎた振り子はまたもとの所にかえろうとするだろう。問題は「大長寿」である。始皇帝の頃から、人類の理想は不老不死である。
その恐るべき理想の一歩手前まできたのが「大長寿時代」である。そういう時代のトップランナーとして、イチロー、武、中田のトリオを考えていたのだが・・・。

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