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vol.325-1(2006年10月31日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
新庄剛志の新しさ

 プロ野球にテレビ時代をひきよせたのは、まちがいなく巨人のON。昭和34年6月25日、初めての天覧試合でONアベックホームラン第1号、もちろん長嶋の劇的なサヨナラホームランもあって、長嶋さんに言わせれば「この試合で(戦前の匂いが残る)職業野球が、メジャーなプロ野球になったんです」。

 それから45年、日ハム・新庄剛志選手の出現によって、私は、いよいよテレビ時代は燗熟期に入った、と知った。東京ドーム球場が出来たとき、日テレの巨人戦テレビ中継関係者は「スタジアムがスタジオになった!」と歓喜の声をあげた、と言われているが、スタジアムをスタジオ的に十分使いこなしたのは巨人の選手ではなく、新庄選手だったように思う。東京ドームではなく、札幌ドームであったが。

 奇妙きてれつな仮面をかぶって練習したり、高さ50mの天井からブランコに乗ってグラウンドに降りてきたり、大型バイクで場内一周したり、歌舞伎でいう外連(けれん)の人、市川猿之助の宙吊り芸のようなパフォーマンスを見せて、ファンをアッと言わせた。もちろん、実力の裏付けがあってはじめてできる、派手派手パフォーマンスだ。

 3年間のメッツでの野球生活を終えて日ハムに入団したとき、「これからはメジャーでもなく、セ・リーグでもなく、パ・リーグです」と見栄を切った新庄らしさが出たパフォーマンスである。広島球場に登場した球審へのボール運搬犬とはわけがちがう。体を張った芸であった。日ハムに入団した2004年は、パ・リーグ球団の経営危機から球界再編で、大揺れに揺れた年であった。日ハムが東京から北海道に移転した年でもあった。ストライキもあった。そんな中に出現した“新庄現象”は、強烈にファンの目をひきつけた。

 日米通算17年間、打率は2割5分少々で、イチローや野茂のようなインパクトはない。しかし、全身全霊で野球にうちこみ、楽しみ、ファンにアピールしたその力は、天晴れ新庄!と言えるだろう。

 新庄は1972年生まれ、イチローは1973年、松井秀喜は1974年である。いわゆる団塊ジュニアである。団塊の世代はベトナム反戦、ビートルズ、全共闘・・・と社会的デビューは華やかだったが、結局のところは高度成長に塊として貢献しただけで、新しい価値観を提示することはなかったように思う。旧世代とあまり変わりばえしないで終った。(これから定年となるから、そのあとはどう変わるかわからない。消費面で面白いことになるかもしれない。)

 しかし、団塊ジュニアはひと味違う。親たちにくらべて、「個」の力が強い。集団に依存することなく、「個」を前面に押し出す力がある。イチローと並んで、新庄はその代表選手だと思う。

 その新庄にして、死んでも忘れられない屈辱がある、というところが面白い。面白いというより、やはりスポーツ選手だな、と思わせる。

 「17年間で忘れられないシーンを1つだけ挙げてくれ、と言われたら1つしかないんですよ。オレがすごい最低打率のとき(阪神時代)にオールスターに出て・・・。打席にむかう時にペットボトルを投げられた時の、あのシーンだけは・・・。死ぬ、いや死んでも忘れられない。選んだのはファンでしょ。オレだって出たくない、こんな成績で。で、スタンドに『こんな成績で出場するな。恥を知れ』みたいに書かれて、揚げ句の果てには打席に入った・・・で10分間、ペットボトルで中断・・・、そして三振・・・。一番の思い出ですね」(日刊スポーツ10月27日付)

 野球ファンの非情冷酷と、熱狂歓喜の実相を身に沁みて知った新庄ならではのパフォーマンスだったと、あらためて思う。新庄と同年生まれのライブドア元社長のホリエモンにも、「個」の強さを期待していたが、こちらは早々とこけてしまった。新庄はタダ者ではなかった。

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