スポーツネットワーク
topページへ
スポーツバンクへ
オリジナルコラムへ
vol.363-1(2007年7月31日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
「泥臭い」サッカーはあるのか?

 サッカー・アジア杯の日本の試合をすべてテレビで見た。 '06年W杯の1次予選で惨敗したオーストラリアにはPK戦の末、辛うじて勝ったが、サウジアラビアと韓国に破れて結果は4位にとどまった。

 何となく悪くても3位、と思っていたから、結果は少し意外だったが、それぞれの試合は面白かった。何が面白かったかといえば、サッカーといえども現在の日本社会の意識のあり方を、実に正確にあらわしているように思えたからだ。

 準決勝の対サウジ戦の批評に、こんなのがあった。

 「セットプレーで力を発揮する一方で、流れの中では余分なパスが多く、崩しきれなかった。泥臭さを忘れた日本を見ているようだった」(7月26日付朝日新聞)

 その通りだと思う。ヨコのパス、細かくつなぐパスはうまい。余裕があり、華麗なパス回しに見える。しかし、パスを細かくつないでいるうちに相手にボールをとられて、シュートが打てない。より慎重に用心深くスキをうかがっているうちに、シュートチャンスを失うように見えた。何とも歯痒い。相手とボールをせりあうとき体がはげしく接触して転ぶのは、たいてい日本選手だった。その弱点が分っているから、なるべく接触を避けてパスをまわそうとしているように見えた。それは間違っていない戦法だろう。1対1で劣るとすれば、1対複数の組織の力で対抗するしかない。

 たしかに、それには限界がある。対サウジ戦で後半12分、ハサウィに力強い個人技で防御網を突破され、強烈なシュートを食らって敗れたのだが、だからといって日本の守備陣を責めるのは酷だ。強い力を内に持ち卓越した「個」には、平均的な組織はときにあっさりと切り崩されるのだ。ハサウィの走り、ドリブル、シュートを見ていると、その力と技に並々ならぬものを感じた。理詰めの組織をいとも簡単に突き破る個は、いつの時代、どこの社会にも、少数ながら存在する。それが組織と個の一面である。こういう選手はマニュアルで育てるわけにはいかないだろう。マニュアルでできるのは組織である。そしてオシム流の組織論はまちがっていない。天才的なドリブラーやストライカーは、育てようとして育てられるものではないだろう。イチローが育てられないように。オシム監督のいう「日本流」の組織をかためながら、何十年に1人出るか出ないかの天才を待つしかない。

 上記の批評で「泥臭さを忘れた日本を見ているようだった」というのは、まさにその通り、というしかない。今の日本に「泥臭さ」など、どこにもない。農業ですら泥臭くなくなった。重油をたいて、ハウス栽培だ。昔、子どもが子守りをし、麦踏みをし、農作業の手助けをするのはふつうのことだったが、今は農薬やら農作業の機械化が 進んで、子どもは危険だから農作業の場に近づくな、といわれる。農業のみならず、社会全体に泥から遠ざかる仕組みが根づいている。農村だけではない。「泥臭い」生き方はカッコわるいものとしてしりぞけられる。

 「泥臭さを忘れた攻め」ではない。今の若者は泥臭さを忘れたのではなく、もともと泥臭さとは無縁なのだ。社会全体に「薬臭さ」はあっても、「泥臭さ」はない。泥臭さはない、と観念したところから日本サッカーは始まる。「泥臭さ」のない日本流をオシム監督はどう作ろうとしているのか、はなはだ興味深いものがある。

筆者プロフィール
岡崎氏バックナンバー
SAバックナンバーリスト
ページトップへ
          
無料購読お申し込み

advantage
adavan登録はこちら
メール配信先の変更
(登録アドレスを明記)
ご意見・ご要望

Copyright (C) 2004 Sports Design Institute All Right Reserved
本サイトに掲載の記事・写真・イラストレーションの無断転載を禁じます。  →ご利用条件