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vol.377-2(2007年11月7日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
為末大選手に期待すること

 どんなスポーツでもその根本は、自分の中に蓄積された力を、いかに最大限のかたちで解き放つか、にある。体をつくる、技を磨き高める、心を研ぎ澄ます―それらがバランスよくつながって、はじめて力の爆発となるわけだ。毎日の苦しい練習は、すべてそのためのものだ。

 スポーツ選手の体験記、自伝の面白さは、力をつけるために日常生活の中で、どんなに細かく工夫を積み重ねていくかが読みとれるところにある。グラウンドの練習だけでは十分でない。日常生活の隅々に目を光らせて、力の蓄積、練磨のために貪欲に取組む生活学のようなものを必要とする。

 東京新聞(10月27日付夕刊)の連載スポーツコラム・桑原智雄「スポーツ句読転」で、400m障害の為末大選手のことが取り上げられていて面白く読んだ。今年の世界陸上大阪大会で、彼はまさかの予選落ちという惨敗を喫した。以来2ヶ月、彼はあらためて、自分を見つめ直したようだ。「よくよく考えると、スマートな練習を増やして、技術面は習熟していたけれど、コアの部分の、力むとか、踏んばるとか、技術が成り立つための根本の練習を避けていた」と言い、「体の中心部の力を増したい」、中心部とは「下っ腹と背骨の間にあるこのぐらいのもの(ソフトボールほどの大きさ)だと考えています」「剣道とかで気合の言葉が出る瞬間に締まる筋肉の場所が中心部だと思っているので、そこを攻めたい。発声練習みたいなことをしなくてはいけないかもしれないし、スクワットをしたり、重いソリを引っ張ったり、サンドバッグを振り回したりすることも考えています」と心境を語っている。

 '01年の世界選手権で銅メダルをとったほどの選手である。練習にぬかりがあったとは思えないのだが、なぜ惨敗したのかを、2ヶ月かかって点検した結果が、体のコアの部分の見直しとなった。

 スポーツは力を外部へ放出するのが基本ではあるが、そのためには体の中心部への意識が大切なようだ。イチローの攻走守の姿を見ていても、いつも力を体の中心へ向けて集中し、臨界点でそれを一気に解放する様が見える。独得の求心力があってはじめて、巨大な遠心力的エネルギーの放出が可能なのだろう。

 為末選手が「体の中心部の力を増したい」というのは、単純に初心に戻る、というのではなく、今まで積み上げてきた技と体の上に立って、新しく獲得した広々とした視野だと思える。

 発声練習はよさそうだ。毎朝、練習に入る前に、文章にリズムのある平家物語などを朗々と音読したりしてはどうだろう。劇団四季のミュージカル俳優たちの稽古を見、体験の交換もする。まさに異文化交流的な経験も役立つのではないか。

 もうひとつ、体の中心部とは丹田といわれる部分なのかもしれないが、そのソフトボールぐらいの大きさのものに、為末選手自身の言葉でネーミングしてみてはどうか。そのもののイメージをはっきりつかむことによって、イメージが為末選手を牽引するようなこともあるのではないか。「一片の氷心(澄み切った心)は玉壺にあり」という漢詩があるが、体の中心部の熱い玉、あるいは純玉純心、素人の私には見当もつかないが、ぜひ素晴らしいネーミングをして、スポーツの心技体の奥深い世界を垣間見させてもらいたい。

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