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vol.378-1(2007年11月14日発行)
岡崎 満義 /ジャーナリスト
稲尾和久投手を憶う

 「神様、仏様、稲尾様」と謳われた元西鉄ライオンズの稲尾和久投手が亡くなった。その鉄腕ぶりはどんなに称えても、称えすぎることはない。語り草になっている1958(昭和33)年の巨人−西鉄の日本シリーズ、3連敗後に4連勝して日本一になったのだが、稲尾投手はこのシリーズ4勝2敗という、信じられないような活躍だった。

 知将といわれた三原監督にひきいられた西鉄ライオンズは、豪快で野性味のあるまことに魅力的なチームだった。筑豊の石炭が最後の輝きを見せた時代を象徴するような黒のチームだった。巨人の故・藤田元司投手は、ライオンズのユニフォームの黒い胸文字を見るだけでイヤになった、と後に話した。そのチームの中心が、打の大下、中西、豊田、投の稲尾であった。野武士、豪傑の名にふさわしい面々だった。

 この年は、その後ミスター・プロ野球と呼ばれた長嶋茂雄選手がデビューした年である。長嶋選手は開幕試合で国鉄・金田正一投手から連続4三振を喫し、日本シリーズの第7戦で、稲尾投手からランニング・ホームランを放っている。巨人入団が決まった王貞治さんは、この第7戦を後楽園球場のバックネット裏で見ている。赤バットの川上哲治さんは、この第7戦を最後に、現役引退した。いわば、日本プロ野球の「戦後は終った」年である。翌1959年6月、巨人−阪神の天覧試合で、長嶋選手は劇的なサヨナラホームランを放ち、またONアベックホームラン第1号もあり、長島さんにいわせると「職業野球からいよいよプロ野球になった」時代の幕が開いたのだ。

 稲尾投手を取材して今も覚えているのは、別府緑ヶ丘高校時代、捕手から投手に転向したとき見たふしぎな夢のことだ。子どものおもちゃで、竹笛を吹くと先についた紙の舌がヒュルヒュルと長くのび、またクルクル巻き戻るものがあるが、稲尾さんの夢は、自分の中指と人指し指がこのおもちゃのように、ボールをふた握りするくらいにヒュルヒュル伸び、投げてみると、ものすごい変化球がでた、というものだった。それ以後、風呂に入れば必ず右の中指と人差し指をひっぱった。努力の甲斐があって、たしかに1cm近く左手の指より長くなった、という。

 もうひとつ。シーズン中は連投に次ぐ連投、今のように先発、中継ぎ、抑えという分業のない時代、完投した次の試合はリリーフ、ということも珍しくなかった。恐るべき酷使に耐える強靭な体力の持主だった。それでもシーズンが終ると、必ず風邪をひき、40度近い高熱を発して数日間、寝込んだという。「その高熱でシーズンの疲れがきれいさっぱりとれたような気がします」と言った。高熱で身体の1年分の掃除をするというのだから、並の体力ではない。

 かつて安打製造機といわれて、やはり一世を風靡した榎本喜八さん(東京オリオンズ)が引退して10数年後、インタビューをしたとき、「数多く対戦した投手の中で、稲尾投手だけはただの一度も、“ひげ剃りボール”(ビーンボール)を投げなかった。素晴らしい投手でした」と深い感情を込めて語った。投手と打者、敵味方の間にも、信頼、友情が存在することを教えてくれるエピソードである。稲尾さんはチームメートはもちろん、対戦相手にも心底、愛された稀有な野球選手だった。

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