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vol.391-1(2008年3月4日発行)

岡崎 満義 /ジャーナリスト
「高校駅伝1区は外国人留学生除外」の愚策

 スポーツ界における選手の国籍問題は、なかなか微妙だ。びわ湖毎日マラソンで優勝したシャミ選手は、ケニア生まれでカタールに国籍を移した選手だ。フィギュアスケート世界ジュニア選手権大会で、3位になった長洲未来選手は、両親は日本人だが、日米両国の国籍をもっており、2010年のバンクーバー冬季五輪には、アメリカ代表で出場する可能性が高い、という。

 本来、スポーツは個人のものであり、国籍などスポーツの本質に何の関係もあるはずはないのだが、国籍にこだわるのは、オリンピックがあるためだ。オリンピック・ナショナリズムが生きているからだ。たしかに、オリンピックに国家ナショナリズム的気分が完全になくなったら、種目別世界選手権と殆ど変わらないことになる。オリンピック至上主義を支えるのは、素朴なナショナリズムといっていいだろうが、そこに国の権威をかけて優秀なアスリートを導入、国籍をかえてしまう例が次第にふえてきた。ナショナリズムは実質的に少しずつ変貌しているのだが、オリンピックの権威を守るために、せいぜい国籍取得後3年たった者に、はじめて五輪出場資格を与える、といったことでお茶をにごしているのが現状だ。

 先日の世界卓球でも、日本を含めてシンガポール、香港、韓国、オランダなど、元中国国籍の選手のオンパレードだった。多少の違和感はあるものの、その高い技術のぶつかりあいには見ていて満足感があった。それにしても、スポーツと国籍の噛み合せが、うまくいかない時代になってきたのは事実だ。オリンピックの“つまずきの石”は、薬物、国籍、規模の肥大化、ということになりそうだ。

 それと似たような問題。3月2日、全国高体連が年末に京都で行われる高校駅伝で、1区(区間最長10km)に外国人留学生を起用できない、というルールを新たにつくった。外国人留学生の力が日本人選手をはるかにしのいでいるため、長丁場の1区では日本人選手は勝てなくなり、勝てないどころか大差がついて、そのまま勝敗が決まってしまう例も多く、全国にテレビ中継される駅伝の面白みが失われてしまう、というのが、大きな理由の1つらしい。

 アフリカから才能ある若者を日本へ送り込む専門の“スカウト”がいることに、たとえ問題があるにしても、いったん受け入れた留学生を、君は強すぎるから10kmを走るのはやめて、それ以下の短い距離を走ってくれ、というのはどう考えても不自然だ。それは差別だ、自由に走る権利を侵すものだ、などと肩肘張ったことはいわないとしても、いかにも姑息な手段に見えて、強いものが勝つ、という誰の目にも明らかな、スポーツのシンプルな明解性に影がさす感じだ。

 そんなことをするより、10kmの区間を1つでなく、2つか3つ作ればいいではないか、と思う。そうすると、全体の距離42.195キロに合わなくなる、というだろう。しかし42.195kmに意味があるのは、マラソンであって、駅伝まで、必ず42.195kmでやると決めなくてもいいだろう。若い選手の走力の向上のための駅伝のはずなのだから、全体距離を変えることは問題ないだろう。少なくとも見る側に異存はない。外国人留学生を1区10kmの区間から締め出すよりは、10km区間をふやして日本人選手にもチャンスを与える方が、より自然だと思うのだが、どんなものだろう。

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