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vol.419-1(2008年10月7日発行)

岡崎 満義 /ジャーナリスト
王監督辞任で思うこと

 9月23日、ホークスの王貞治監督が今年かぎりでユニフォームを脱ぐと発表した。監督として巨人で5年、ホークスで14年、グラウンドに立ってユニフォーム姿を見せつづけた“巨人”も、ついに姿を消すことになった。時代を支えたON時代が終焉を迎えたのだ。真のスーパースターがいなくなる!

 来年2009年がON50年の年になる。1958年に長嶋が、1959年に王が巨人に入団。1959年6月25日、伝説の天覧試合巨人−阪神戦がONアベックホームラン第1号だった。

 夜9時12分、村山実投手からサヨナラホームランを打った長嶋は「この試合で“職業野球”が“プロ野球”になった記念すべき日でした」と、のちに私に語ったことがある。この年1959年は当時の皇太子ご成婚があり、テレビが飛躍的に伸びた。出版社系の週刊誌も一斉に創刊されて華々しい情報化時代を迎えた。翌1960年は安保闘争のあと、池田勇人内閣が出現、「所得倍増」政策が打ち出されて、いよいよ経済の高度成長時代が幕をあけ、高度大衆消費社会がひらけてきた。巨人V9と高度成長は二人三脚のように進んだのである。まじめに、ひたすら働いていれば、豊かな生活が手に入る、と誰もが信じて時代を生きた。

 当時のドゴール仏大統領が池田首相を評して「トランジスターのセールスマン」と皮肉ったが、そんなことを気にすることはなかった。アメリカに追いつき、追いこせ、となりふりかまわず働いた時代である。夜、テレビでONの勇姿を見ながら、家のことも忘れて、会社一筋に働いたものだ。「軽い政治、強力な経済エンジン」という車体に作りあげて、ONの旗をなびかせて走る車、というのがその頃の日本のイメージである。

 2000年に王ホークスと長嶋ジャイアンツの日本シリーズがあった。「ON対決」と大いにはやされた。結果は長嶋ジャイアンツが日本一に輝いたが、そのあと「ON対談」の司会をした。そのとき、翌2001年からマリナーズに移ることが決まっていたイチローについて、2人は異口同音に「彼ならメジャーでも、絶対3割は打てる」とタイコ判を押した。そして王監督は「野茂、佐々木、イチローだけでなく、やがて井口や城島もメジャーに行くんですよ」と言った。事実、数年後、井口も城島も海を渡った。「巨人のV9なんて、将来、絶対にありえない。一度日本一を味わったら、次はメジャーという道筋ができてしまいましたからね、この流れは止まらない」と、少しさびしそうな表情になった。

 長嶋監督も「ねぇ、ワンちゃん、ぼくらの頃はいい組織で働いて、そこに骨を埋める、というのが唯一の生き方だったよね。それ以外の生き方はかんがえられなかったからね」と、言い、王監督も深くうなづいたものだった。会社共同体の時代が終わり、「個」の時代がやってきた。核家族から個族(孤族?)へと変わった。グローバル化は個が支える、とでもいうように。

 対談が終わったあと、雑談になって「お二人にはどんな形でも長くプロ野球にかかわってほしいものです。ONそろって元気で、100歳を越す位まで生きてほしいです。元気なONを見ていれば、みんな多少年金が減っても何とかがんばれるでしょうから」と言うと、「ONはプロ野球のきんさんぎんさんになるわけですか」と2人は呵々大笑した。半世紀を野球人として生き抜いたONは、2人とも、内から支えつづけた愛妻を失った。Nは脳梗塞で倒れ、Oは胃がんを手術した。来年はON50年の節目の年、何かいいONイベントができないものだろうか。

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