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vol.422-2(2008年10月30日発行)

岡崎 満義 /ジャーナリスト
笑顔のマラソンランナー
 高橋尚子の引退に思う

 笑顔のマラソンランナー高橋尚子が、ついに引退した。最近は怪我も多かったが、笑顔のランナーは必ず不死鳥のようによみがえると思っていた。1998年名古屋国際女子マラソンで優勝して以来、同じ年のバンコク・アジア大会、2000年シドニー五輪、2001年と'02年のベルリン・マラソンで優勝。マラソン6連覇を成しとげ、まさに天馬空をゆく感のある快走ぶりで、私たちを大いに楽しませてくれた。佐々木七恵、増田明美、浅利純子、有森裕子・・・という日本女子マラソンの伝統につながり、さらに世界一流レベルに引き上げた最大の功労者である。

 成績もさることながら、トレードマークの笑顔が素晴らしかった。Qちゃんの行くところ、必ず笑顔あり、の風情だった。漫才つっこみ風笑顔の福士加代子とはまた違った、正統的な笑顔、という感じだった。

 2001年ベルリン・マラソンを制した高橋と長嶋茂雄対談を、その年の11月にしたことがある。高橋は長嶋さんに会うなり、「ベルリンのときは励ましの電報をいただき、ありがとうございました」と、深々と頭を下げたことを覚えている。長嶋さんはニコニコしながら、「これ、お祝いというかお土産」と、小さなルイヴィトンのリュックを手渡した。「ワーッ、うれしい!できたらこれに長嶋さんのサインをしてください」と、たちまち和気藹々の空気が漂った。このときの対談でもっとも印象に残ったのは、優勝したベルリン・マラソンのたしか1週間後に予定されていたシカゴ・マラソンに出場する、と宣言したものの、日本陸連の猛反対にあい、実現しなかったことを、大いに残念がったことである。このときだけは、高橋の顔が曇った。たしかに、世界の舞台で間を1週間しかおかないで2度走る、というのは、誰もやったことのない、多分できないことだ。無謀きわまりない企み、と陸連のOB専門家には見えたにちがいない。日本の至宝をむざむざ壊すわけにはいかない。誰だってそう思うだろう。しかし、それだからこそ、高橋は「誰もしようとは思わないことをやってみよう」と思ったのだろう。高橋は“走る冒険家”としてのロマンを追いたかったのだ。

 「自分では1週間の調整で、絶対やれると思っていたので、とても残念でした」と、高橋は言った。野球選手でも、どんな球でも打ててしまう、バットを振ればヒットになる、という、スランプの反対、絶好調の時期がたまにあるようだが、そのとき高橋もそんなハイの状態にあったもかもしれない。走ればすべて勝てそう、それも快記録で。マラソンは1年に2、3回走るのがふつうだが、そんな常識をひっくりかえしてみたい、という強い気持ちがあったようだ。

 2004年にアテネ五輪出場を逸し、翌2005年5月、小出義雄監督との1995年以来のコンビを解消、仲間と「チームQ」をつくって、自立体制に踏み切った。それは、マラソンランナーとして、新しい成長の姿と見えた。私も拍手したい気持ちだった。ただ、思うような結果だけがでなかった。

 10月28日付朝日新聞に、次のような記事がでた。11月の東京国際女子マラソンを皮切りに、大阪国際女子、名古屋国際女子の3レースに連続出場すると、高橋は宣言した。ところが「関係者によると、当初は順調に練習をこなしていたが、8月中旬から心と体のずれのようなものを本人が感じるようになったという。体調が悪くないのに走ろうという気持ちが起きなかったり、走る気分が出てきても体がついていかなかったり、それで悩むようになった。うまく走れず、9月に入り、関係者を交えての進退についての話し合いの場が一度あったという。そこではもう1ヵ月、練習を続けることにしたが、心身ともに立て直すことはできなかった。・・・」

 心と体のずれは、誰もが人生の中で一度や二度味わうものだが、トップアスリートの心と体のずれとは、どんな状況なのか。チームQのメンバーも含めて、高橋の「心と体のずれ」を、詳細に解明レポートしてほしい。高橋自身のペンで、あるいはスポーツライターの手で。それは貴重な「心技体」論になるはずだ。

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