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vol.400-2(2008年5月9日発行)
滝口 隆司 /毎日新聞大阪本社運動部記者
本当の「ピンポン外交」とは

 来日している中国の胡錦濤国家主席が、早大の構内で福原愛らと卓球をして友好ムードを盛り上げた。各種メディアもこれを「ピンポン外交」と取り上げている。だが、ピンポン外交とは本来、このように選手を利用した政治的デモンストレーションを指すのではない。卓球界が国際交流のために動き、国際政治にも大きな影響を与えた歴史を、スポーツ界の人間はこの機会にもう一度振り返ってみるべきではないか。

 国際卓球連盟(ITTF)の会長を務めた故・荻村伊智朗氏の書き残した文章を集めた「笑いを忘れた日 伝説の卓球人・荻村伊智朗自伝」(卓球王国ブックス)という本を読んでいる。現役時代は世界選手権で12個のタイトルを獲得。1965年に現役を退いた後は日本卓球協会の役員として日本チームの強化を進め、73年からITTF理事。87年にITTFの第3代会長に就任し、卓球を通じて世界のスポーツ交流に尽力した人だ。

 荻村さんが初めて中国に渡ったのは、1961年の世界選手権が北京で開かれた時だった。日本との国交がなかった時代。現地で開かれた日本チームの歓送会をきっかけに荻村さんは周恩来総理と知り合い、翌年には周氏から頼まれて中国での卓球普及に協力するようになる。周氏は、中国女性の間で歴史的に長く続けられてきた「纏足(てんそく/幼い時から足を包帯で巻いて発育を止める習慣)」をやめたいと考えていた。纏足によって女性の体格は悪くなり、生まれてくる子どもの体格も悪くなる。これでは民族の悪循環に陥ると考え、纏足の習慣を断ち切りたいと思っていた。そのためには女性を含め、広い中国全土でだれもが親しめるスポーツを普及させる必要がある、と周氏は訴えたという。

 荻村さんは各地を回り、卓球を通じて中国との交流が始まった。しかし、66年からは文化大革命の嵐が吹き荒れ、中国スポーツ界も弾圧を受ける。同年、日本代表監督として中国入りした荻村氏さんは宴会の席上、かつてから親しかった中国代表監督の傅基芳氏から英語で「Maybe you can help me now」と言葉を掛けられる。荻村さんはその時、「私はそこでハッとしました。なにか今、緊急に自分がこの人を助けることがあるとすれば何だろうか」と考えたが、何が出来たわけでもなかった。そして、1年2カ月後、傅基芳氏の自殺の報が日本に伝わってきた。

 当時の中国卓球界は世界選手権に不参加を続けていた。荻村さんは各国の元世界チャンピオンらと一緒に周氏に電報を送って国際舞台への復帰を求めたが、しばらくは何の返事もなかったという。71年は名古屋で世界選手権が開かれる。それを前に荻村さんは粘り強く交渉する機会を探り、ついに周氏から招かれて面会を果たす。中国は6年ぶりに世界選手権への復帰を決定。この名古屋大会をきっかけに米国チームが中国に遠征するなど、米中の関係発展にもつながっていった。

 「スポーツを政治が道具にすることは、それ自体はそんなによいこととは思いませんが、現実にはままあることです。周恩来さんは、人と人とが結びつくような、あるいは国と国とが結びつくような手段としてスポーツを使ったなと思うのです。(中略)スポーツの力は政治の力にくらべればはるかに小さいわけですから、政治家がスポーツをどう扱うかによって、スポーツの光も輝いたり、影がかかったりいろんなことがあるものだなという感想を持っています」

 荻村さんはそう書いている。政治との距離感は常に難しい。しかし、スポーツが世界の人々を結びつけるきっかけを作ることもできる。今から40年近く前のピンポン外交は、改めてそんなスポーツの役割を教えてくれる。

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