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vol.404-3(2008年6月6日発行)
滝口 隆司 /毎日新聞大阪本社運動部記者
長沼健さんとサッカー記者たち

 日本代表監督を務めたメキシコ五輪では銅メダル獲得に貢献し、日本サッカー協会の会長としてワールドカップの日本招致に尽力した長沼健さんが77歳で亡くなった。時代に名を残す人が逝った時、新聞社ではだれがその人の評伝記事を書くか、という話になる。そして、3日付朝刊の一般紙各紙(大阪本社発行版)に載った署名記事の顔ぶれを見ながら、「やはり、この人たちか」という気にさせられた。

 私の所属する毎日新聞のスポーツ面には、先輩の斉藤雅春さん(現福島支局長)の記事が掲載された。98年フランスW杯に至る加茂周監督の去就問題、02年の日韓W杯共催が決定するまでの苦悩を記事は振り返り、斉藤さんは「サッカー界が危機に立った時、最後は長沼さんが出てきた」と書いた。朝日新聞は田中基之さんだった。「長沼健さんが日本協会の会長を務めていなかったら、02年W杯の日本開催は実現していなかったかもしれない」と、田中さんもW杯招致を取り上げ、「日本サッカー界の歩みの節目節目に、長沼さんの姿があった」と表現した。

 日経新聞の武智幸徳さんは、広島高等師範学校の付属中学でサッカーを始めた少年時代の長沼さんが、原爆投下を間一髪逃れた逸話を披露。「拾った命をサッカーにささげた」と書き、「韓国との(W杯)共催は苦渋の決断だったが、決まった後は隣人の顔を立てる形で共催の道筋をつけた。リーダーが和を重んじる長沼さんでなかったら、もっとぎくしゃくしたW杯になっていたのではなかろうか」と長沼さんの人柄なしに共催W杯の成功はなかった、と評した。

 産経新聞の小田島光さんは、国際サッカー連盟から示された共催案を受け入れた長沼さんが「志半ばだった」と、国民の期待に沿えなかった悔しさを表現した様子を振り返る。そして、原稿の最終段落には「好きな言葉は『志』。十一の心と書く。イレブンの精神が宿っている」。W杯招致の苦悩と長沼さんらしい座右の銘を掛け合わせた。

 いずれも日本のサッカー界が大きく動いた90年代の担当記者たちだ。Jリーグが発足し、韓国とのW杯共催を受け入れ、予選途中での代表監督交代を経てW杯初出場が決まる。どの場面にも長沼さんはいた。そして、「あの時代」を取材していた一線記者たちが、熱のこもった追悼記事で長沼さんを送った。ある時は長沼さんを厳しく批判しながらも、ともに日本サッカーを支えてきたという気概が根底にあるのだろう。それぞれの人物評には、担当記者と競技団体トップのほどよい距離感と愛情がにじんでいる。

 読売新聞に署名記事はなかったが、一面コラム「編集手帳」は、長沼さんが古河電工の選手兼監督だった当時の話から書き出している。「週末、大阪に移動。日曜は試合。終えて夜行列車で帰京。東京着は月曜午前5時。駅で朝食。そのまま出社、仕事・・・」。日本リーグ創設当時の話だ。「いまのJリーガー諸君には夢物語を聴くようだろう。日本サッカー人気が花ひらいた陰には、黙々と土を耕し、水をくれた先人たちがいる」。短いコラムに長沼さんの人生が凝縮されていた。

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