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vol.414-1(2008年9月5日発行)
滝口 隆司 /毎日新聞大阪本社運動部記者
「最後の早慶戦」を甦らせた老記者

 8月に封切られた映画「ラストゲーム 最後の早慶戦」を観た。東京六大学野球連盟が解散を命じられ、野球が敵国のスポーツとして蔑視されていた戦時下の話だ。学徒出陣を前にした1943年10月16日、早大・戸塚球場で早慶戦が行われる。その開催に至る両大学の苦難を描いた作品である。

 この映画はぜひ観ておかなければならないと思っていた。上映される前に会社に一冊の本が送られてきた。この映画の原案となった「最後の早慶戦 学徒出陣還らざる球友に捧げる」(ベースボール・マガジン社)だ。

 著者は当時のメンバーだった早慶野球部のOB2人。早大は、南海などプロ野球でも活躍した笠原和夫さんだが、98年に他界された。一方の慶大はアマチュア野球評論家として84歳になった今も健筆を振るう松尾俊治さん。松尾さんは元毎日新聞運動部記者であり、私の大先輩にもあたる。

 松尾さんと久しぶりにお会いしたのは、今年の春のセンバツだった。甲子園の毎日新聞の記者室にひょっこりと訪ねて来られた。

 「私が生まれたのは、甲子園が完成したのと同じ1924年なんだよ」。改修工事でリニューアルされた甲子園を見ながら、松尾さんはそんな話をされた。甲子園球場の近くで生まれ育ち、旧制灘中学から慶大へと進んだ松尾さんは、捕手としてあの「最後の早慶戦」で1年生メンバーとしてベンチに入っていた。終戦後は再びグラウンドに戻り、卒業後の48年からは新聞記者として野球報道に携わる。まさに、この眼でアマチュア野球の歴史を見続けてきた、という自負が感じられた。

 松尾さんは「社会部の記者を紹介してくれんかね。80回目を迎えたセンバツのうち、私は70回は見ている。子どもの時は沢村栄治(京都商−巨人、戦死)も見たよ。今のうちに、いろんな歴史を伝えておきたいんだ」と言った。社会部の記者が松尾さんを取材し、記事は兵庫県版に掲載された。「日米開戦の41年には、夏の甲子園が中止に。野球は『敵性競技』とされた。兵庫大会も中止され『最後の夏』に賭けていた松尾さんは練習場で泣き崩れた」と社会部の記者は書いている。そして、進学した慶大でも戦争が野球の場を奪っていった。

 「ラストゲーム」の公式サイトに、松尾さんは「65年の時を経て・・・」という文章を寄稿している。

 「『このまま戦場に行くのは残念だ。なんとか思い出に早大と最後の一戦をやりたい』というのが慶應ナインの気持ちだった」。その思いを慶大の小泉信三塾長が早大野球部に伝え、早大の飛田穂洲・野球部顧問が大学側との粘り強い交渉の結果、開催にこぎつける。そこに至る困難と学生たちの心境がくっきりと描き出される。

 試合は早大の圧勝に終わるのだが、映画のクライマックスは、終了直後のワンシーンだった。両校が整列し、ゲームセットが告げられると、一塁側観客席の早大学生が慶大の応援歌「若き血」を、三塁側の慶大学生が早大の校歌「都の西北」を大合唱する。松尾さんは「試合後起こった出来事は非常にすばらしく、また感激的なものであった。両校の学生が一緒になって、校歌、応援歌を力の限り歌いつづけた」と記している。敵味方なくスポーツの素晴らしさを分かち合う当時の学生の姿が、学生野球の歴史の重みとともにずっしりと伝わってくる。

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