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vol.759-1(2018年8月7日発行)
岡 邦行 /ルポライター

原発禍!「フクシマ」ルポ101

 100回目を迎えた、高校野球夏の甲子園大会が開催中だ。正直に言えば、別件の取材で甲子園球場に出向いたことはあるが、ここ10年大会を取材したことはないし、ましてやテレビで観戦することもない。私は高校野球が嫌いなのか・・・。
 だが、3・11後は毎年のように福島の高校野球だけは取材している。この5月には福島市の郊外にある、県営あづま球場に行った。春季大会を観戦するためだったが、3・11当時に県高野連理事長を務めていた、宗像治さんに久しぶりにお会いしたかった。
 1953(昭和28)年生まれ。私と同じ南相馬市(当時は原町市)出身の宗像さんは、磐城高の選手時代は夏の甲子園に2度出場し、福島北高の監督時代は春のセンバツ大会に出ている。
 「その中で忘れることができない悔しい思い出は、やはり高3のときの夏の甲子園大会決勝戦ですね。神奈川の桐蔭学園高に0対1の接戦で負けた。当時は炭鉱の町・いわき市に、東北勢初の深紅の優勝旗をもたらすはずが逃してしまったんですから・・・」
 センターを守り、毎試合ヒットを放っていた宗像さんは、そう言って当時を振り返った。
 今から47年前の71(昭和46)年の夏、磐城高は夏の甲子園大会準優勝を果たし、炭鉱の町は沸いた。だが、すでに当時は国家のエネルギー政策が石油に転換され、石炭産業は衰退。同時に国策として〝第三の火〟のキャッチフレーズで原発が推進され、その年の3月に東京電力福島第1原発の1号機が営業運転を開始していたのだ。
 宗像さんは磐城高時代のアルバムを見つつ、話を続けた。
 「でもね、やっぱり、一番辛かったのは3・11のときでしょう。当時のぼくは県の理事長を務める一方、東北6県の高野連理事長も兼務していた。各県の被害状況を把握するために情報収集に奔走し、日本高野連に現状を報告しなければならない。地震で新幹線は不通になって利用できない。ガソリンも手に入らなくて車も使用できないしね。それに大阪の日本高野連に現状を伝えても、温度差があったよね。関西の人は阪神・淡路大震災を経験していたために理解してくれたけど、原発事故の悲惨さはなかなかわかってもらえなかった・・・。まあ、3・11の年は、春季大会は中止にしてね。夏の県予選は開催したけど、批判の電話が事務局にかかってきた。『選手たちに放射能を浴びせるのか、人殺し!』『放射能を甘くみるんじゃねえ、馬鹿野郎!』なんてね・・・」
 当時、私は何度も県高野連の事務局や試合会場のあづま球場に行った。隣接する体育館は被災者の避難所となり、駐車場には自衛隊がテント式の風呂を設けていた。  そして、宗像さんたち県高野連のスタッフは、線量計を手に早朝から球場内の放射線量を測定。その数値を書いた用紙を球場内に貼りだした。
 「いろいろと批判もされたけど、開催してよかった。3・11以来会ってなかった選手同士が抱き合っていた。ああいった姿を見ると『ああ、よかった』と思った。あれから7年も経つけどね・・・」
 2年後の夏に開催される2020年の東京オリンピックでは、あづま球場は野球とソフトボール競技の会場になる。正面玄関前には『2020年〝ふくしま〟から世界へ 感謝の思いを伝えます』と書かれたのぼりが立っている。
 炭鉱と原発と、それにオリンピック・・・。
 原発事故のため、未だ故郷に戻れない被災者が約5万人もいることを忘れてはダメだ。

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