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本講座は終了しました ■第25期スポーツマスコミ講座
『日本のスポーツマスコミはワールドカップをどう伝えるのか』

■ 講座概要 
【開催日時】

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【会場】日本青年館 研修室(東京 千駄ヶ谷)
【講師/テーマ】

杉山 茂氏(2002年W杯日本組織委員会放送業務局長)
『テレビはW杯の最高のプレーと最高のシーンを撮り送る』

田中 基之氏(朝日新聞東京本社 スポーツ部記者)
『新聞はW杯の何を書き、何を伝えるのか』

伊東 武彦(週刊サッカー・マガジン編集長)
『サッカー専門誌のW杯に関する企画と取り組み』

広瀬 一郎(株式会社スポーツ・ナビゲーション取締役)
『スポーツ専門情報サイト、初の挑戦と試み』

【受講生ワールドカップレポート】

■ 代表論(細堀泰弘)
■ ワールドカップを観戦して(安藤 崇)
■ 今度はJリーグに愛を(武山智史)
■ ワールドカップが私物化された?(宮野真吾)
■ ワールドカップ後のサッカーの形(角田麻子)
■ キッカケ(細堀泰弘)
■ 私のW杯(長谷川 創)
■ 観客席とピッチの距離(角田麻子)
■ ワールドカップがもたらすもの(MANGO)

【講評】 受講生のリポートを読んで (杉山 茂)


【講評】受講生のリポートを読んで

マスコミ講座受講生の「2002年ワールドカップ・リポート」全9篇を読んだ。

誰もが、この大会のどこかに「物足りなさ」を感じているようだ。私も同感である。

それが、何を理由としているものなのか、各氏は懸命に探し出そうとしている。

「ワールドカップ」というスーパーネームに、味わう前から酔いしれすぎてしまったのではないか。角田麻子さんの2篇が、テーマを変えながら、そのあたりをズバリと突いている。素敵な筆の運びだ。

我々は、いつも、ビッグイベントのあと、それをつとめて「美しい記憶」にとどめようといきごむ。

だが、時間が経つにつれ、美しさが薄れ、記憶が遠のく。

いつまでたっても、日本のスポーツは、足が地につかないのである。MANGOさんは、その責任にマスコミをあげる。正しい。

安藤崇さんの"観戦記"も「美しい記憶」を振り払うようで、面白い。私は、全試合を横浜の国際メディアセンターに居てテレビ観戦で過ごしたが同氏のいう「アタリ」は少ない印象を受けた。

日本代表についての評論が少なかった。私もその気になれない。

とりあえずベスト16、それ以外に何があったのだ。

2002年の大会での日本は、何をしたチームだったのか。長谷川創さんが、嫌みなく刺してくれた。

細堀泰弘さんも、ワールドカップの代表は、単に星勘定だけを問うものではないと迫り、ほかの1篇ではピッチを離れての想いをまとめた。

武山智史さんは、これからの日本サッカーのカギを、Jリーグに預けた。その成否は、これまた、マスコミの"姿勢"による。

肩に力が入ったのは宮野真吾さんの1篇だ。ソルトレークシティにしても、今大会にしても"政治的誤審"はスポーツをダメにする。通常の(?)誤審とは根が違うのである。

どのリポートも、思いのままが描かれ、ワールドカップの持つ多彩さを、改めてうかがえた。

「楽しかった。でもね…」の「でもね」のあとが、ジャーナリスティックな視点というものである。
現実を見つめ、過ぎたできごとを顧みなければ将来に活きない。

今回のマスコミは「日韓共催」の意義にとらわれ過ぎもした。「美しい記憶」に大会期間中から早々と溺れこんだ。

これからも、スタディアムで、アリーナで、コートで楽しみを味わったあと、何かを書きとどめてみて下さい―。

〔杉山 茂〕

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◇代表論
(細堀泰弘/受講生)

代表論は、今まで多くの解説者や評論家によって語られてきたサッカーのテーマのひとつである。

今回の代表選考も4年前と同じく物議を醸したであろうし、それ以上だったのかも知れない。また、今大会は外国代表チームの構成にさえ、興味を引かれた方も多いはずだ。これは自国開催がもたらした大きな恩恵のひとつであろうし、代表論はこのワールドカップを通して、さらに身近な話題になったのかも知れない。

今大会、あなたの代表論はどう変化し、どの国の代表チームに魅力を感じただろうか?そして、日本代表を強化していくために、どんなチーム育成をすべきだと考えているだろうか?

代表論を考える前提として、代表チームを決して選抜チームにしてはならないと、私は考えている。もちろん技術の高いプレーヤーを順に選抜すれば事実上の最強チームになるし、強化への近道であると考える方も多いだろう。しかし、それが結果として、最高のものになるとも限らないのがサッカーなのだ。

サッカーにとって最も大切なことは、現状にどんなスタイルを適応すれば最高のパフォーマンスを引き出せるかというところにある。

ブラジルのように個人技を前面に打ち出したスタイルに憧れてしまう思いもある。しかし、日本のサッカー界がブラジルのような土壌にないのも事実であり、次の4年間に世界レベルのスター選手が揃うとも考えにくい。

一方でこのスタイルという言葉を象徴すべく、私は今大会のアイルランド代表に強い衝撃を受けた。欧州予選、アイルランドは屈指といわれた激戦グループで強豪のオランダをおさえて2位通過。プレイオフでも、その力強さを活かして出場権を獲得していた。本大会、チームの主柱・ロイキーンを失うも、組織力とチームプレーは揺らぐことはなかった。その根底には確固たるスタイルが存在していた。

モダンサッカーがもてはやされる今日、ミック・マッカーシーの指揮する戦術には古典的な印象さえ受ける。しかし、個人はチームスタイルの追及のために自身の役割を理解し、ポジションをこなす事に余念がなかった。

これは、アイルランドだけにいえる事ではない。魅力的なサッカーをするチームには、必ずそれぞれのスタイルが存在するのだ。

今、日本代表に確固たるスタイルが存在しているだろうか?残念ながら、それに肯定することは出来ない。でも模索の糸口は、この大会から得られた気がする。世間は次期監督の選考に目を奪われがちであるが、ワールドカップ熱から冷めた今、冷静に代表チームのスタイルを考える時が来ていると思って止まない。

これが日本サッカーのあり方やサッカー文化を育む大切な過程になると確信するからだ。

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◇ワールドカップを観戦して
(安藤 崇/受講生)

6月2日、さいたまスタジアム2002でキックオフを待ちながら、私はワールドカップ観戦とはどんなものかと想像していた。31才になって、生まれて初めてのワールドカップ生観戦。一緒にスタジアムに足を運んだ父は61才。こちらも初のワールドカップ観戦だ。これから行われるゲームは、そんな私たちの感性にどう働きかけてくれるのか?イングランドからやってきた野太い声の男たちに囲まれながら、私はそんなことを考えていた。

主審の笛が鳴り、試合が始まる。序盤は完全なイングランドペースだ。私のまわりでは"Come on England!! Come on England!! "と呪文のようなコールが続き、いつしかうちの父の口からも呪文がこぼれている。コーナーキックから24分に先制点を奪ったイングランド。これで勝負は決まりかなと思いかけたその頃から、イングランドの中盤の足が止まる。少しずつ陣形が間延びし、リュングベリの個人技も目立ち始めた。

後半に入るとその傾向は顕著で、ゲームはすっかり私のスタンドの反対側、100メートル先のイングランドゴール前で展開されている。周囲のイングリッシュ達もピンチに驚き、クリアに安心して、選手を励ましてと忙しい。「呪文」を唱えるボリュームも上がってきたようだ。

しかし、59分。アレクサンデションの直接フリーキックでイングランドは追いつかれてしまう。一瞬の落胆。その後、フルボリュームでの大声援。野太い声の男たちは決して下を向くことはなく、ピッチの選手たちに力を送り続けていた。

試合後、悔しがる素振りも満足した様子もなく「まあ、初戦はこんなものだろ」といった様子のイングリッシュ達と軽く挨拶を交わした私たちは、浦和美園駅へ向かっていた。すっかりイングランドファンとなった様子を見るに、父はこの生観戦によってサッカーを観る楽しみに目覚めたのだろう。

では、私はどうだ? たしかに楽しい体験ではあった。すっかり非日常を満喫し、初めてのワールドカップを体感することができた。しかし、「ついに俺はワールドカップを観たんだ」という感激には乏しかったような気がする。

そして、その感激はこの後観戦した「フランス対ウルグアイ」「エクアドル対クロアチア」「日本対トルコ」、いずれの試合でもついに感じることはできなかった。

私のワールドカップのスタートは86年のフランス対ブラジルだった。テレビの向こうでは、プラティニやソクラテス、ジーコが勝利のために肉体と精神を捧げ、私の想像を超えたテクニックを駆使しながら必死にボールを追っていた。つまり、私にとってワールドカップは、あの試合の選手達の気迫や技術とセットになって記憶に焼き付いているのものなのだ。

では、私が観戦した試合はどうだっただろうか? 選手達が手を抜いていたとは思わないが、どこか淡泊な感じ。ボールを追うのをあきらめるシーンが多く、選手同士の当たりも弱い。足が伸びそうな所で伸びてこない。

今大会のテレビ放映で観た「スペイン対アイルランド」や決勝戦では、選手達の強い思いを感じられたことを考えると、大会全体が低調だったというより、単に4試合のハズレくじを引いただけなのだろう。

しかし、ハズレの背後には気候的・日程的問題による選手のコンディション、サッカー市場全体の過発展による選手の個人主義などの問題が潜んでいることは間違いなく、今大会は「ハズレくじ」の可能性が高かったのだ。

現在、膨大な発展を遂げたサッカー界・ワールドカップには大クラブ偏重主義、過密スケジュール、大陸間レベル格差などさまざまな問題が渦巻いている。これらが少しでも解消され、ドイツ大会では少しでも「アタリくじ」が増えることを望む。

そして、私はその試合を存分に堪能できるように、4年かけて観戦眼に磨きをかけておこうと思う。

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◇今度はJリーグに愛を
(武山智史/受講生)

 

日韓共催によるワールドカップは、前回優勝国のフランスが初出場のセネガルに敗れるというセンセーショナルな出来事で開幕し、一時は本大会出場が危ぶまれたブラジルの5度目の優勝で幕を閉じた。

この1ヶ月間、日本国内はワールドカップの話題一色となり新聞、テレビ等でも大きく取り上げられていた。

中でも一番の話題は日本代表の活躍だったと言っても過言ではない。

前回のフランス大会では予選リーグ3戦3敗だった日本代表だが、今回は2勝1引き分けで決勝トーナメントに進出した。その影響もあり日本戦のテレビ中継は高視聴率を記録し、日本が勝った日には繁華街でサポーターが大騒ぎするなど日本代表の活躍に多くの人が酔いしれた。

日本中を興奮の渦に巻き込んだワールドカップは終わった。しかしここで5年前の「あの言葉」を思い出して欲しい。

「代表が盛り上がったので今度はJリーグをお願いします。」

ワールドカップ初出場を決めた直後、コメントを求められたある選手はこうカメラに向かって言った。

そして、ワールドカップが終わった現在にあてはめると、この言葉はこのようになる。

「ワールドカップが盛り上がったので今度はJリーグをお願いします」

1990年代から始まった日本サッカーの躍進はJリーグ発足による影響(著名外国人選手の入団、ユースなど下部組織の充実、選手の海外移籍等)が非常に大きい。

例えるならば、ピラミッドの土台(Jリーグ)が固まったことで頂点(日本代表)がレベルアップしていったという図式だ。逆に言えば、Jリーグを疎かにしてしまうと代表は弱くなってしまうということになる。

ワールドカップの余韻がまだ残る7月5日にJ2、7月13日にJ1が再開される。

ワールドカップで盛り上がった人々はそのままの勢いでぜひJリーグを盛り上げ、1人でも多くの人がスタジアムに足を運んで欲しい。

今後のJリーグの盛り上がりによって、今後の日本代表のワールドカップの成績に大きく影響するかもしれない。

だからこそ言いたい。「今度はJリーグに愛を」と。

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◇ワールドカップが私物化された?
(宮野真吾/受講生)

最初に断っておくが、以下の文は、あくまでも私独自の意見を記したものである。

今回のレポートでは、ワールドカップサッカーの魅力を観戦しに行った2試合から採り上げるつもりだった。

「〜つもりだった」過去形になってしまったのには理由がある。

理由としては、試合内容よりも、韓国代表に関係する試合で数多く見受けられた、いわゆる「誤審問題」を、どうしても採り上げたかったからだ。

それに試合内容などは、ワールドカップの優勝国予想などで、全く当たっていないプロの記者が詳しく採り上げてくれている。任せることにする。

今回のワールドカップの試合では、誤審が目立ちすぎた。普段サッカーを冷静に観戦している、サッカー経験者の父や友人の多くが韓国−イタリア戦の審判団は、「ひどすぎる!!」と激怒しているのだ。

人間が審判をしている以上、サッカーに限らず、誤審問題などは、どのスポーツにも起こりうる。しかし、誤審も「過剰」になってくると試合を観戦している方もすっきりしない。

韓国戦を戦っていた相手の選手は、審判に対して相当な不信感を募らせていたはずである。

韓国のホームとはいっても相手にとって、あまりにも不利な判定を下すのは、試合内容にも影響してきてしまう。何事も「過剰」という言葉が出てきたら要注意だ。

ここからは、私の推測になるのだが、韓国の試合で誤審が多いのは、FIFA副会長のチョン・モンジュン氏の権力が関係しているように思えてならない。

この副会長は、日本の単独開催も邪魔した人物であるし、韓国の次期大統領の座も虎視眈々と狙っていると聞く。

この人の権力を持ってすれば、審判買収などは、いとも簡単に出来てしまうのではないかと疑われても仕方がないとも思う。

この日韓の共催ワールドカップで、韓国代表がベスト16もしくは、日本代表以上の結果を残せば、国民や世界の人々に強烈なインパクトを残すことが出来る。

そうなれば、副会長も開催を成功に導いた人物の1人として、国民の人気を得て、大統領選に出馬することも可能になってくるのだろう。

今回のワールドカップで、誰が儲かったのかを考え出していくといろいろな推測が出来る。

結論を述べる。

1人の政治家の利益や思惑のために、4年に1度のワールドカップに国の威信を懸けて全力を尽くそうと努力している各国代表の選手や試合を楽しみにしているサッカーファンを失望させるようなことは、してほしくない。

4年後にFIFAの体質が少しでも改善されていることを願う。

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◇ワールドカップ後のサッカーの形
角田麻子/受講生

ブラジルの5度目の優勝で幕を閉じた日韓共催2002FIFAサッカーワールドカップTM。終わってしまえば、日本や韓国に世界の一流の選手が集まっていたことが夢のようでもある。

その決勝が行われた横浜国際総合競技場では、8月25日(日)にもうひとつのサッカー世界大会の決勝戦が行われる。「2002年国際知的障害者スポーツ連盟(INAS-FID)サッカー世界選手権大会」だ。

今回が第3回となるこの大会は1994年から、ワールドカップの開催と合わせて4年に1度開催されてきたわけだが、過去2回の大会はイギリスで行われており、ワールドカップ開催地で行われるのは今回の日本が初めてとのこと。ブラジルやアルゼンチン、ドイツといった強豪国やアフリカなどからも含めた16ヶ国が参加し、8月8日(木)から予選リーグ、決勝トーナメント、順位決定戦と計48試合が、東京・横浜で行われる予定である。

6月30日を持って無事終了したワールドカップだが、いくらワールドカップが世界の一大イベントだとしても、梅雨を考慮して通常の大会よりも半月ほど早い開催となったことや、日本に10時間以内に来られる国というのが出場32カ国の中で韓国と中国くらいだったことなどを考えると、「なぜワールドカップでの戦績も残していない遠いアジア地区での開催だったんだ?」という、素朴な疑問がつい生まれた。

そこには建前にしろ、「サッカーの普及」という命題があったことは忘られがちである。もちろん、「普及」というのは、国内の小さい子供や一般的なサッカー人口の増加や技術の向上がまずあるかにしろ、日本が率先して障害者のサッカーを応援していくのも、ひとつの「サッカーの普及」の形である。

終わってみれば、FIFAの支出が前回のフランス大会よりも2倍の8億スイスフラン(約650億円)と史上最も高額となり、放送権料にまつわるドタバタや、ワールドカップ開催における経済効果に関心が集まるなど、とかく金銭面の話題も多かった。

サッカー自体が選手の移籍金など「金ありき」の面がクローズアップがちになっているにせよ、一握りの「プロ」たちの周囲に発生する高額マネーは、世界中の気が遠くなるほど多くの「アマチュアプレーヤー」と「サッカーファン」あってこそ生まれるお金であり、多大なお金と労力の「もと」を取り返す手段にその場だけの1万円より、後の継続的な100万円を考えれば、今回多額のお金をつぎ込んだワールドカップのキャンプ地や試合会場となった場所は、ぜひ「サッカーの普及」に真剣に取り組むべきだと思う。

また、今回の知的障害者のサッカー世界選手権が初めてイギリス以外の国、ワールドカップ開催国である日本で行われることによって、オリンピックに対するパラリンピックのように、今後ワールドカップ開催国がこの大会を開催していくようになれば、その道筋を作った実績という、日本でワールドカップを開催した意味が少なくとも1つは残る。

いずれにせよ、しょせん日本代表がベスト16で終わった今大会を「美しい記憶」とだけにはしてほしくない。

長年サッカーを見つづけてきた人たちにとっては、長年の夢が実現した、重く感動的な大会だったかもしれないが、今回日本で開催されたことでサッカーというスポーツに関わりだした人たちにしてみれば、すべては始まったばかりだ。

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◇キッカケ
(細堀泰弘/受講生)

「試合はワールドカップのイベントの一つに過ぎない。」

これは、週刊サッカーマガジン編集長・伊東武彦氏が我々に語った一説である。そして、こう付け加えた。

「出場32ヶ国は世界百数十ヶ国の選抜であり、数知れない民族の集約である。」

サッカーをメシの種とする同氏の発言としては、消極的な意外性を感じた。しかし、専門分野の枠にとらわれない文化人としての一面が見えた意見だったのかもしれない。

あなたは、この世界最大のスポーツイベント期間をどう過ごしているだろうか?

僕は、ある学生サークルの一員としてこのワールドカップを迎えた。

活動は、来日する海外サポーターに日本での想い出を色付けしたいという気持ちから始まった。その一環で、僕は多くの韓国人留学生と出会うことができた。過去の歴史的・政治的背景は長い間、僕らを遠く引き離してきた。隣国であるにもかかわらず、その近さを感じることはなかった。

しかし、この共催は僕らに隙間を埋めるキッカケを与えてくれている。主催の選考過程にどんな真相があったかが問題ではない。この共催が、お互いの交流を深めるキッカケとなっていることは事実なのだから。

韓国だけではない。各国サポーターも数多く来日している。自国チームに声援を送る事で、一体感を感じることもワールドカップの一つの醍醐味である。しかし、日本代表チームが敗退してしまった今、主催国としての特権を活かしてみてはどうだろうか?チケットがないことに、うなだれる必要はない。横浜では決勝に向け、たくさんのイベントが企画されている。また、試合前には勝ち残った国のサポーターが、横浜の街を賑わすだろう。

世界最大のスポーツイベントの雰囲気を実感することなく、このキッカケをあなたは逃してしまうのだろうか?

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◇私のW杯
(長谷川 創/受講生)

「やっぱりブラジルは凄い!!」

イングランド戦を見て、そう思った。

私には、今でも「サッカーはブラジル」という遺伝子が生き延びている。それは、中学生の頃に見たTVアニメ「キャプテン翼」の影響であろう。私の知っている「大空 翼」は小学生の天才センターフォワードで、その年齢では考えられない(実際は大人でもできない)スーパープレーを連発していた。その彼が憧れるコーチがブラジル人の「ロベルト」だった。サッカー部でもなく、専門知識もない私に、「スーパースターが相手選手を振りきって得点することこそサッカーである」という概念を植え付けるには十分なストーリーであった。

ところが、最近では、私好みの、スーパースターが一人で大活躍するサッカーは時代遅れの感があり、欧州的な組織サッカーが流行のようである。巷に組織戦術論を振りかざす、にわか解説者が溢れ始めたのもその一端であろう。余談ではあるが、トルシエ監督を招いて「組織論」の講演会を開く企業も1社2社には留まらないのではないか・・・。

訳知り顔で組織論を唱える“彼ら”の大半は、職場や学校で何かしらの組織に属している。フォワードとして活躍する者もいれば、地道にスライディングを繰り返すバックスもいるだろう。実力を評価されずに、登録メンバーから落選してしまった者さえいる筈だ。

そういう彼らにとって、1人1人が自分を捨て、11分の1としての役割を全うする戦術は、非常に身近なものであり、一言もの申さずにはいられないのであろう。

しかし、彼らはブラジルVSイングランド戦に何を見て、何を感じたのであろうか?

私はといえば、見たことも無いようなテクニックを駆使するブラジルに興奮させられっぱなしであった。そこは、説明など必要としないスーパースターのフィールドであり、かつての「大空 翼」が目指した場所であった。

100年後、人々に語り継がれているのは、「ロナウドのドリブル」や「リバウドのシュート」、「ロベルトカルロスのフリーキック」であり、フラット3ではないことを、今の私は確信している。

準決勝、決勝を前に、私はW杯を十分に堪能することができた。

W杯万歳!!

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◇観客席とピッチの距離
(角田麻子/受講生)

日本代表の活躍と共に盛りあがりをみせたサッカーワールドカップ。その会場となるべく、日本で試合が行われるスタジアムは、10会場のうち7会場が陸上トラックを併設していた。

私自身、実際観戦する機会があり、日本対ロシア戦の会場でもあった横浜国際総合競技場も同じくトラックを併設しており、その結果、選手がプレーするピッチのタッチラインからスタンドまでの距離が30m、ゴールラインからスタンドまでの距離は41.5m。実際スタンドからピッチを目にしてみると、緑の人工芝でトラックを隠したところで近くに感じるどころか、だだっ広い緑の敷地の真中でこじんまりコートを作ったようにピッチが小さく見え、数値以上に逆に遠くに感じられる。
       
日本代表が今大会で戦った4試合を見てみても、初戦のベルギー戦が行われた埼玉スタジアム2002を除いては、すべて陸上用トラックが併設されたスタジアムであり、予選の最終戦・チュニジア戦が行われた大阪・長居スタジアムで、スタンドからタッチラインまで28m、ゴールラインまでは44m。決勝トーナメントのトルコ戦が行われた宮城スタジアムではスタンドからタッチラインまでが34m、ゴールラインまでが43m。ちなみに、サッカー専用スタジアムである埼玉スタジアム2002は、スタンドからタッチラインまでが14m、ゴールラインまでが19m。収容人数の差こそあれ、同じくサッカー専用スタジアムの神戸ウィングスタジアムでは、スタンドからタッチラインまでは6〜9m。取れたチケットの試合会場によって、同じ料金を払ってもこれほどまでに距離が違うのだ。

トルコ戦から一夜明けた後のトルシエ監督のコメントの中に、「ただし、もっと積極的に行けば良かったという指摘も分かります。ただ、それを言うなら、スタジアム全体に、もっとホームを感じさせるような、ほかの会場が良かったかもしれません」とあった。

しかし、本来だったら宮城だろうが横浜だろうがどこでも日本のホーム。チケット問題などで空席があったりしたものの、それ以上にピッチとスタンドの実質的な距離がそのまま選手とサポーターの距離となってしまったことは、自国開催のワールドカップで自国での試合でありながら、その自国代表監督にこう言わせてしまったことはと
ても悲しむべきことだ。

かたや、共催国の韓国が10会場のうちの7会場をサッカー専用スタジアムとし、文字通り「12番目の選手」として、選手の戦うピッチのすぐ近くでサポーターが熱狂的に応援しているのを見れば、日本代表と韓国代表の結果の違いに、「スタジアム」と言う箱物と、そこから生まれる選手とサポーターとの距離の違いを感じざるを得ない。

サッカーの本場では、こうしたトラック付きのスタジアムで試合が行われることの方がめずらしい(というか単純に、選手がプレーするコートやグラウンドからこれほど離れて見るスポーツを私は他に知らない)と言える中、ほとんどが「選手が遠い」スタジアムで観戦した多くの日本人「にわかサッカーファン」は、これを機に本当に世界のサッカーを知ることができたのだろうか。サッカーを見る楽しさに目覚めたのだろうか。

 「ワールドカップを成功させる」という世界に対しての対外的な面子をかけながら、箱物行政でとった日本と韓国の違い。「国内人気はそれほどでもないのに、サッカー専用スタジアムをあんなに作っちゃって、ワールドカップ後はどうするんだ」という韓国に対する声も聞こえる一方、ワールドカップ後も幅広いスポーツに「有意
義」に使うためのスタジアムを建設した日本。

お祭りとしてでなく、サッカーというスポーツとしてワールドカップを開催してよかったと、ワールドカップを開催した意義があったかどうかわかるのは、4年後のドイツ大会かもしれない。その時、日本人サポーターは選手の近くにいるのだろうか。

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◇ワールドカップがもたらすもの
(MANGO/受講生)

ワールドカップは、この国に何を残すのだろう。

ファーストラウンドが終了し、数々の名勝負、物語が生まれ、日本の老若男女が盛り上がっている。大会は大成功といえるだろう。コギャル、おばあちゃん、サラリーマン、フリーター、ダンサー、サーファー、みんなが日本代表に熱狂し、本物のサッカーに触れるのは、本当に素晴らしいことと思う。

しかし、最高の盛り上がりを見せた後、この国には何が残るだろう。

4年の1度の祭りというが、次回この祭りは違う場所で開催されてしまう。でも祭りの施設は残っている。祭りを楽しんだ人たちが残っている。祭りをサポートしたスポンサーも含め、何もかも残るが、この祭りはもう日本にやってこないかもしれない。

4年前に多くの税金を投入し、大きな祭りを呼んだイベントが日本にはあった。

1998年、長野オリンピック。大会は、ホームの大声援に見守られた日本人選手の大活躍もあり、多くのメダルと感動を国民にもたらした。そして、当時も経済効果がしきりにメディアで報じられた。しかしその後、施設の後利用のまずさが報じられ、税金の使い道も問われるなど、様々なマイナスのニュースが流れた。今の長野と日本の冬季スポーツ界には、何が残ったのだろう。

当時の長野オリンピックの状況と、現在の日本の状況がとても似ているように思えてならない。当時もそれこそ近所の子供から渋谷のおねえちゃん、銀座のママまで清水・岡崎・船木、原田の活躍に熱狂し、海外の精鋭の実力を目の当たりにし、国民はスポーツに酔いしれた。

ところが、長野オリンピックは日本スポーツ文化に何を残しただろうか。スケート人口が増えたという話も聞かなければ、選手の環境が改善された話も聞かれない。冬季スポーツの国内大会が盛り上がった話ももちろんない。オリンピックで培われたはずのノウハウはなかったのだろうか?オリンピックという絶好のPRチャンスをもらった関係者に、その後のプランはあったのだろうか?多くの税金を投入し、築いた各会場のその後の利用方法のアイディアはなかったのだろうか?あれだけ盛り上がったファンはどこに行ってしまったのだろうか?

祭りの後にもスポーツは続く。祭りの後にも、施設、選手、ファン、スポンサー企業は存続する。この国から消えるのは、ワールドカップという大きなイベントだけ。ところが、欧米諸国では事情が少し違う。彼らには、各国のリーグ戦、カップ戦、チャンピオンズ・リーグ、UEFAカップという毎年盛り上がる祭りがある。長野オリンピック後に、日本ではそういった祭りがなかった。

ではサッカーはどうだろうか?必ずしも悲観することはない。冬季スポーツと違い、日本にはJリーグというプロリーグが存在する。その分だけマスコミが報道する。

しかし、油断は禁物。Jリーグはまだ、この国のお祭りにはなっていない。ところが、祭りの設備だけが整ってしまった。箱物行政の典型で、中身については何ひとつ議論されていない。

この点でのマスコミの責任は大きいと思う。祭りを盛り上げるのは、大切だが、繰り返すがこの祭りはもう2度とこないかもしれない祭りである。次のプランの提示こそが、今必要とされているのではないだろうか?整った設備に、どんな中身を入れるのか?どのようにして、新たな祭りを構築していくのか?この祭りがもたらすものは?

我々は、ワールドカップという素晴らしき祭りに出会えた。しかしこの出会いは日本スポーツの素晴らしき青春の1ページで終わってしまうのだろうか?それとも、日本のスポーツ文化の成熟の大きなきっかけとなるのだろうか?青春の一思い出で終わらないためにも、マスコミと関係者の責任は大きい。

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