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vol.307-3(2006年 6月28日発行)
杉山 茂 /スポーツプロデューサー
大切にしたいジーコ氏の“求めたもの”

 FIFAワールドカップの日本敗退をめぐって、分析、回顧、批判などが洪水のように流れ込んでくる。どう読み捌(さば)いてよいものか。

 気になる論調がある。ジーコ氏が、日本選手の個々の状況に応じた展開力、判断力を信頼、期待したにも拘らず、充分に応じられなかった、とする指摘だ。

 問われる姿勢は、ジーコ氏なのか、日本選手なのか。

 それは、ジーコ氏の「日本選手に対する認めかた」だったのだ。サッカーに限らず、日本のあらゆるスポーツのトップゾーンは、かみしめてみる必要がある。

 日本の競技者は、成長過程で、あまり「自らが考えて上達する」時間を与えられていない。監督と呼ばれ、先生と呼ばれる“師”の意向のなかで動かされ育つ。

 しかも中学、高校、大学と輪切りの構造でそれぞれの節目で完結(目標達成)が求められる。

 指導する側も、愛好する側も、限られた時間のなかで結果を求めてもがくため、個々の工夫などに割かれる余裕は生まれない。

 日本での“スポーツ生活”が短いとは言えぬジーコ氏が、この状況に気付かなかったとは思えぬが、押し通した。

 一球一球への対応を、監督から指示されて従う“甲子園戦法”が、日本のスポーツの、特に少年層で主流を成している間は、ジーコ氏のような理念は、空振りに終わる。

 サッカー界は、Jリーグ系のクラブによるジュニア、ユース育成で、かなり個性が開発されてきた、と言われたものだ。

 それでも、この結末である。やはり「オレについて来い」式の指導でなければ、となるようなら、それは拙(つたな)い。

 「分かっているのですけど…」と苦々しげな表情を浮かべたのは、ある球技の高校監督だ。「教わったことが上手くいくより、自分で考えたことを成功させるほうが面白い」との持論で指導を続けていたら、「あの先生は生徒まかせで何も教えてくれない」と父兄からの批判が渦巻いた、と言う。

 ドイツでの低調には、日本のスポーツ風土が底流にある。

 ジーコ氏が見込んでくれた自主性への信頼。サッカーだけの教訓にしまいこんでは、もったいない―。

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