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vol.399-1(2008年4月28日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター
「強ければいい」のか

 近ごろのスポーツ事情を見渡していて、これでいいのかと思うことがふたつある。

 強ければいい、勝てばいいとする風潮が、スポーツを見る人々の間に広がりかけているのが、そのひとつだ。たとえば、競技に臨むマナーやスポーツマンシップが欠けていても、強くて話題になっていれば、なんのためらいもなくもてはやすといった傾向がある。それは違うだろうと思わずにはいられない。

 いまさら言うまでもないが、マナーやスポーツマンシップは、単に行儀がいいとか態度が悪いとかの問題ではない。その競技を本当に愛しているか、戦う相手を尊重する気持ちを持っているか、スポーツという文化を大事に思っているか――といった根本的な姿勢がそこに現れるのである。見かけや言葉づかいはどうあれ、それは見ていればおのずとわかってくるものだ。いくら強かろうが、そこのところが欠けている人物など、応援する気にはならないというのが、真のスポーツ好きというものだろう。

 スポーツは勝ち負けと記録だけで成り立っているわけではない。そこに登場する人間たちの実にさまざまな思いや、長く培ってきた独自の伝統などがかもし出す多様な要素が重なり合っているからこそ、あれほど魅力的で奥深いのだ。勝ち負けをすべてとするなら、それはスポーツではなく、ただの争いごとにすぎない。スポーツの持つ多様な味わいを楽しむのではなく、強くて目立っていさえすればよしとする風潮は、しだいに文化としてのスポーツを崩壊させていくだろう。

 こうした傾向がどうして出てきたのだろうか。考えてみると、いわゆるゲーム感覚の蔓延、スターを一面的にのみ繰り返し取り上げていくテレビの影響などが頭に浮かぶ。社会全体に共通する風潮が、そのままスポーツにも投影されているというわけだ。それにしても、「強い」とか「目立っている」とか「いつもテレビに出ている」とかいうことのみが評価の基準となり、スポーツマンシップが欠けていることへの免罪符にもなるという世の中とは、なんと索漠としていることだろう。

 もうひとつは、かねがね指摘されてきていることだ。単純に表現してしまえば、スポーツの芸能化とでもいえるだろうか。

 いまやテレビの主役といえば、お笑い芸人といわれる人々であり、彼らはどこにでも出没する。政治だろうが経済だろうが選挙だろうが事件だろうが、その顔を見ないことはない。お笑い本位制と言いたくなるくらいだ。もちろんスポーツも例外ではない、というより、スポーツ番組は彼ら抜きでは始まらないと言ってもいい。

 そこで、スポーツがらみの番組は、どんな種類のものであれ、そのほとんどがバラエティ番組と化している。試合や大会の中継でさえそうなっているのは、オリンピックや世界陸上で何度も見せつけられているところだ。おまけに選手たちのかなりの部分はそれを嫌がっていないようにも見える。もはや民放では、スポーツをスポーツとして真っ正面から取り上げる番組は見られないのだろう。

 この傾向はテレビ番組だけではない。たとえば実際の大会などでも、過剰なショーアップというような形で見られるようになってきている。盛り上がればいいという考えなのだろうが、それが競技のイメージやファンの興味の持ち方などを変えてしまう場合もあるのではないか。ということは、競技の本質をそこなう懸念もないではないというわけだ。

 繰り返して言わせてもらえば、スポーツは多様な中身が渾然一体となっているものであって、それを一面的にとらえるばかりでは、楽しむことも深く理解することもできない。「強ければいい」「面白ければいい」の流れが広がっていくようなら、いずれスポーツは変質していく。それでいいのかと声を上げずにはいられない。いつの時代でも、スポーツはスポーツらしくあってほしい。

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