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vol.418-1(2008年9月30日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター
王監督が伝えるもの

 気持ちのいいセレモニーだった。福岡ソフトバンクホークスが地元で今季最後の試合を終えた時のことだ。本拠地のファンへのラストゲームの挨拶に、王貞治監督の退任挨拶が重なったのだが、それがなかなか感じのいいひと時だったのである。

 全選手が整列し、王監督が挨拶をして、恒例のグラウンド一周。そのほかは、監督への花束贈呈があった程度だ。つまり、いつもの本拠地最終戦のセレモニーに、ほとんどよけいな演出はつけ加えなかったのである。それでも爽やかな味わいが残ったのは、やはり王監督の人柄のなせる業だろう。

 監督の挨拶も淡々としていた。自らのことにはあまり触れず、ファンの期待にこたえる成績が残せなかったことを「すべて監督の責任」と率直にわびた。退任については、「14年間ユニホームを着せていただき、大変幸せでした」と語っただけでおさめた。ただ、はっきりと、かみしめるように語る口調と、歳月の重みがくっきりにじんでいた表情とが、言葉以上のものを雄弁に伝えていたように思う。全選手と握手をしたのも、いかにも気配りの人らしい温かさを感じさせた。静かに心にしみていく感動がそこにはあった。

 そんなセレモニーを見ていると、あらためて感じないではいられなかった。これと正反対の光景が、いまのスポーツ界にはあまりにも多すぎるのではないか。

 過剰なショーアップはもはや珍しくない。無用の演出も目立つ。「盛り上げる」ということを「空騒ぎ」と取り違えているのだ。どれも、それぞれの競技の雰囲気をそこなっている。なのに、誰もそこを考えようとせず、いわばスポーツのバラエティーショー化とでもいうべきものが進んでいる。

 アスリートたちについても、突出したキャラクターがもてはやされているという印象がある。たとえば、突飛な言動や、乱暴でわざとらしい態度などが注目すべき個性として取り上げられるのは、あの亀田騒動にみられる通りだ。ともかく、全体に「あざとい」空気が満ちていると言えばいいだろうか。

 王監督は、現役時代から一貫して、そういったあざとさとは無縁だった。最高のスーパースターでありながら、おごりたかぶる様子などはいっさい見せず、ファンやメディアを大事にし、自然で誠実な態度、対応を崩さなかった。頑固で激情家の側面もあったのだろうが、いずれにしろ妙な気取りやおごりはなく、いつもまっすぐだった。つまり、いかにもスポーツマンらしいスポーツマンだったのである。いまのおかしな風潮とは正反対のところにいる人物というわけだ。

 スポーツはあくまでもプレーやパフォーマンスが主役であって、よけいなものをつけ加えると、本来の味わいはどこかへ消えてしまったりする。テレビ的な価値観ばかりを重視して、あざといショーアップなどを続けていれば、いずれ本当のファンは離れていく。スポーツ界は、もうそれに気づかねばならない。

 王監督の退任セレモニーと、監督自身の人柄に教えられるところは多いと思う。空騒ぎなどで盛り上げなくとも、本物の感動は生まれるのだ。主役に人間的な魅力があれば、派手さや突飛さなどなくてもファンは自然にひきつけられる。スポーツの世界はもともとそういうものだったのではないか。

 このことに限らず、王貞治という存在は、これまで、スポーツのスポーツらしさを守るひとつのとりでになっていたように思う。たくまずして生きた規範となり、スポーツ界の姿勢を正す役目を果たしていたということだ。そこにいるだけで、人々の背筋を伸ばすような存在感が、この偉大な野球人にはあった。

 だが、来季になれば。王さんはもうスポーツの現場にはいない。あとはいったいどうなるのだろうか。スポーツ界の人々には、せめてあのセレモニーの味わいを、しっかり心にとめておいてほしいと思う。

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