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vol.464-1(2009年10月7日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

なぜ存在感がなかったのか

 2016年夏季五輪の招致レースで、東京のアピールにはいつもなにがなしの違和感があった。「それだけなのか」「もっと伝えるべきことがあるんじゃないか」としきりに思ったのである。

 東京の主張は、「我々は完璧な計画を持っている」「破綻なく運営できる」ということに尽きていた。財政基盤の厚さ、最先端技術を駆使した施設づくり、堅実な運営計画。そこに環境が最大のメッセージとして加えられたが、要は、安全、正確で間違いのない、しかも豪華な大会を開くことができるというアピールの繰り返しだったと思う。

 なるほど、それらは最重要なファクターのひとつではある。財政面の破綻を最も警戒するIOCも重視する点には違いない。ただ、そこはどの候補都市も万全を期するところだろう。いわば招致の土台である。うちの土台はよくできているのだと強調するのも大事だが、その上にどんな家が建つのかを語らなければ、話を聞く方は拍子抜けしてしまうのではないか。

 問題は、東京招致にあたる人々が、それで十分と思い込んでいたフシがあることだ。

 投票に敗れた後、石原都知事は「誰に聞いても、(IOC総会での)東京のプレゼンテーションは圧倒的によかったということだが・・・」などと語った。他の関係者からも同じ趣旨の発言があった。だが、本当にそこまで言い切れる状況だったのか。テレビで見た限りでは、スピーチにしろ映像にしろ、ほかの3都市を圧倒したと断言できるほどの内容ではなかったように思える。なのに、他を圧していたと臆面もなく言ってしまう。そこに、自分たちがやっていることに疑問を持たない体質、他と比較して省みる姿勢が欠けていること、ハード面さえ整えれば十分だと思ってしまう、いわば官僚的な思考形態などが象徴的にのぞいているような気がしたものだ。いずれにしろ、招致の中枢はこのやり方で十分と思っていたのだろう。

 もちろん、十分ではなかった。既にメディアで再三指摘されているように、「なぜ東京なのか」「なぜ2度目なのか」「どんなオリンピックにしたいのか」というアピールが欠けていたのだ。IOC委員の心を揺さぶるような説得力に乏しかったと言ってもいい。緻密な計画、確実な運営能力という土壌の上に咲かせる花の色を、東京はついに伝えることがなかったのである。

 リオデジャネイロには「南米で初めての大会を」という、きわめて明快な主張があった。マドリードには市民の熱烈な支持があり、ラテン文化圏、ヒスパニック文化圏の大会というキャッチフレーズも打ち出していた。ところが、東京、それとシカゴにはそうした独自の色がなかったのだ。双方とも、そつなく整えられた計画で大国の底力を示しはしたが、それ以上のインパクトは伝わってこなかった。ことに東京は、計画の評価が高かったにもかかわらず、招致レースにおける存在感は思いのほか薄かったといえるだろう。

 そうしたことから考えれば、この落選も仕方ないと言わねばならない。もちろん日本のスポーツ界自体が国際舞台で存在感を示せていないという問題があり、しばしば指摘されるロビー活動の不足も影響してはいるだろうが、今回に限っていえば、招致の核となる主張、アピールそのものに存在感や強い発信力がなかったのが敗因と言うべきだ。

 根底にあるのは、やはり「日本の社会においてスポーツはどんな存在なのか」という問題なのだと思う。スポーツを純粋に楽しみ、生活の一部とし、また文化として慈しんでいくという基本的な姿勢、意識がまだまだ薄いのだ。それがこうした機会に、隠しようもなくにじみ出てしまうのではないだろうか。

 今回、JOCをはじめとするスポーツ界は重い教訓を得た。ロビー活動だのIOCの力学だのという些末なことではない。日本のスポーツはどうあるべきなのか。そんな基本中の基本から考え直す必要があると思うのだが、どうだろうか。

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