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vol.470-2(2009年12月11日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

かけがえのない宝

 石川遼は宝物だ。いまさら言うまでもないと怒られるかもしれないが、人気と実力を兼ね備えたスターだから、18歳の若さで賞金王になったから、というだけのことではない。スポーツが持つ美点、美風、魅力をこれほど体現している存在など、まずめったに現れないのである。だからこそ、かけがえのない宝なのだ。

 ひたむきに練習して、少しでも自分を高めようとする。どんな状況でも逃げずに攻めていく。勝っておごらず、満足せず、上を目指していく。大舞台にもひるまず、果敢に挑んでいく。そして何より、その振る舞いだ。十代の少年らしく、いかにも元気で、だが常に礼儀をわきまえ、折り目正しく、取材などに対する受け答えも真摯な姿勢を崩さない。その言葉もありきたりではなく、自分で真剣に考えて語っているという感じが伝わってくる。

 と、こう書いていると、いくらなんでも褒めすぎのような感じがしてくるが、少なくとも表に出ている姿は、誇張でもなんでもなく、この通りではないだろうか。自分を高めようとする思いがよほど強く、純粋でなければ、18歳の高校生がこの競技でここまで高いレベルに達することなどできはしない。プロ入り2年目でツアー賞金王の座につくことなどできない。その爽やかで折り目正しい振る舞いにしても、意図して優等生を演じているような感じはなく、ごく自然だ。我々スポーツファンが石川遼に抱いているイメージは、実像にかなり近いと思う。

 そう考えると、あらためて思わずにはいられない。なんとスポーツマンらしいスポーツマンなのだろう、と。彼はまさしく、スポーツというものが持つよさ、美しさを、さまざまな面でそのまま体現しているではないか。宝物などという大仰な表現を使うと、本人はかえってとまどうだろうが、この少年は確かに、きわめて希有な存在だと思う。

 時代は移り変わり、社会はますます複雑、重層的になっている。最近はあちこちで荒廃が忍び寄っているようにも見える。そんな世の中ではものごとがストレートに伝わりにくい。純粋さや一途さ、単純素朴な思いなどという、いわば「当たり前の」よさが、ややもすると軽んじられ、そっぽを向かれるという傾向さえあるようだ。

 スポーツの世界も同様に変わりつつある。つくられた興奮や演出された感動などがまかり通っているのは、その象徴だ。選手にしても、実力にかかわりなく、ちょっとした個性がトリックスター的な評価でもてはやされたり、マナーに欠ける振る舞いがヒール人気を呼んだりするという、いささかおかしな状況にある。それらもまたスポーツの一断面ではあるのだろうが、あまりに本道からそれていっては、それこそスポーツの「当たり前の」魅力が薄れていってしまうだろう。

 そうした中だからこそ、石川遼の存在はきわめて意義深い。彼の姿はそのまま、スポーツ本来のよさ、魅力をストレートに、単純明快に示しているからだ。幅広い意味でのスポーツマンシップがそこに体現されていると言ってもいいだろう。彼の存在は、よけいなものをそぎ落とした本来のスポーツ、あえて言えば、あるべき姿のスポーツを思い出させてくれる。ハンサムな容貌や、ビッグドライブや、華やかな勝利だけではない。実にスポーツマンらしいスポーツマンだからこそ、石川遼は魅力的なのである。

 そこで痛切に思う。彼にはこのまま大きくなっていってほしい。スポーツの本道をそれずに、まっすぐ進んでいってほしい。多くの少年たちが彼の姿を見て学ぶだろう。志を同じくする若者が他の競技からも出てくるだろう。そうなれば、いまのスポーツが抱えるゆがみも少しずつ正されていくのではないか。1人の選手だけに託すべきことではないかもしれないが、そう思わせるだけのものが石川遼にはある。

 道の先は長い。18歳の若者にかかる期待はあまりにも大きく、重い。彼がまっすぐ進めるように支えていくのが、関係者の、メディアの、そしてファンの務めだ。

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