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vol.538-1(2011年8月29日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

姿勢が問われている

 国際大会の魅力とは何かを考えてみよう。言うまでもなく、多種多様な民族、人種、多種多様なスポーツ文化がひとつに集うことだろう。

 それぞれの固有の歴史、民族の特性、スポーツに対するさまざまな考え方などが、そこには見てとれる。団体競技ともなると、いっそうその国ならではの個性が際立つのは、サッカーW杯などでよく言われることだ。国際大会、国別対抗試合の魅力、面白さとは、おのおのの文化や民族性に支えられた独自の個性が、スポーツというわかりやすい舞台を通して競い合うところにある。それが国際大会の意味であり、本質であり、存在理由ではないか。だからこそ相互理解が進み、親善友好に役立つ場ともなるのだ。

 そのあたりを考えると、ラグビー日本代表にはどうしても違和感を拭えない。これが最善だと、ラグビー界は本当に思っているのだろうか。
 
 まもなく開かれるW杯ニュージーランド大会に向けて選ばれた代表チームでは、日本にルーツのない外国出身選手が10人選ばれた。30人の3分の1。これまでで最多である。実際のゲームになると、FWの第三列やロック、スタンドオフ、センターといったあたりを彼らが占める。ボールにからみ、攻撃の起点になる機会の多いポジションである。まさに外国出身選手が日本代表の中核なのだ。
 
 ルールとしては何の問題もない。国籍を取得して、ずっと日本で暮らしていこうという選手も少なくない。その決断と情熱は素晴らしいものだし、そうした選手たちがやって来るのは大歓迎だ。が、問題はそこではない。考えるべきは先に述べた「本質」である。まったく違う歴史、まったく違う文化、まったく違う地域性のもとで生まれ育った選手が中心となっている代表チームとは、それぞれの独自の個性が競い合うという国別対抗戦の本質からは、いささかずれているのではないか。

 そこには、何がなんでも勝ちたいという姿勢を感じる。日本開催となるW杯が8年後に控えている中で、ホスト国になろうとする日本がいっこうに勝てないのではいかにも具合が悪い。ならば、強力な即戦力である外国出身選手でなりふりかまわず勝ちにいこうという思惑があるのだろう。それだけに、よけい違和感は募る。

 他の国でも行われているという指摘がある。そうした流れがボーダーレス社会の成熟を表しているのであれば、意味はまた違ってくる。が、日本のケースにそれはあまり感じられない。

 国籍や人種に偏狭なこだわりを持つということではない。国際大会の意味をどう受け止めているか、というだけだ。勝つことだけではないスポーツの本質、さまざまある魅力、面白みをどこまで大事にしているか、ということだ。日本のラグビー界は強化だけにこだわりすぎて、他のことをほとんど忘れているようにさえ思える。

 この問題を考えていると、高校野球にも思いがいく。先だって終わった甲子園大会では、準優勝校のレギュラーが県外選手で固められていた。それもまたルールには何も抵触していない。ただ、そこに賛否両論があるのは、このケースに限らず、そうした傾向ばかりが強まっていけば、しだいに高校野球本来の姿がゆがんでくるのではないかという懸念がどうしても拭えないからだろう。

 といって、ルールや規則で縛るべきだとはまったく思わない。これらはスポーツに向き合う精神の問題であり、規則で枠をつくるようなものではない。いまあるルールのもとで、それぞれの関係者がそれぞれに決めていけばいいのだ。ただ、そこでは、競技そのものや国際大会に向き合う姿勢や精神、すなわちスポーツ人としての心のありようが、否応なく浮き彫りとなる。

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