スポーツネットワーク
topページへ
スポーツバンクへ
オリジナルコラムへ

vol.551-1(2012年2月17日発行)

滝口 隆司 /毎日新聞運動部記者

被災地に息づく元市役所職員の情熱

 福島県浜通りを舞台にした「いわきサンシャインマラソン」は、今年で3回目を迎えた。コースの半分以上は津波の被害を受けたが、1年近く経って道路も整備され、無事開催にこぎつけた。「復興祈念」と銘打たれた今回の大会に私もエントリーし、レース前日の11日、いわき市に入った。

 前日はコースの下見ツアーに参加したのだが、バスでマイクを握ったのは、バスガイドの女性ではなく、元市役所の保健体育課長さん。この大会創設に奔走し、昨年早期退職したというTさんだった。

 Tさんはしみじみと、しかし明るい顔で言った。「最初は警察に『道路は遊び場じゃねえ』と言われたものですよ」。警察だけでなく、地元企業や商店、漁協などを一つ一つ回りながら、地元の理解を得ていったそうだ。

 1988年、常磐自動車道がいわき中央インターまで開通する直前に、まだ車が走っていない高速道路を使ってマラソン大会を開催したのをきっかけに、本格的なマラソン大会創設の機運が盛り上がったという。いわきにはフラガールで有名な「スパリゾートハワイアンズ(旧・常磐ハワイアンセンター)」もあり、Tさんは「東北でもホノルルのようなマラソンをしてみたいと思った」と振り返った。Tさん自身もかつて3時間を切ったことのある「サブスリーランナー」だ。構想から20年以上たった2010年。数々の障害を乗り越え、保健体育課長という責任のある立場になって、Tさんはついに夢を実らせた。

 今回、ランナーとしてレースに初参加したTさんは、コースの下見の最後に「20年の重みを感じて走ってくださいね」と言っていた。だが、それは自分に向けた言葉だったのかも知れない。

 レース当日、最大の見せ場は第1折り返し地点にあたる江名漁港だった。海辺にあった家は津波につぶされ、基礎だけが残っているところも多い。海に向かって立つ墓地も波にさらわれたのだろう。ほとんどの墓石が新しくなっていた。そんな場所に地元の人たちが大漁旗を持ち寄り、太鼓を打ち鳴らしてランナーを励ました。

 参加者はフルマラソンの約4400人を含め全種目で過去最多の約7800人。箱根駅伝を沸かせた東洋大の柏原竜二選手(いわき総合高出身)や、スポーツジャーナリストの増田明美さんもゲストとして走った。アップダウンが激しく、海沿いの強風に苦しめられる難コースだったが、沿道から「頑張れ」だけでなく、「ありがとう」の声が飛んだのは、何よりも復興への地元の思いを感じさせた。

 まもなく震災から1年を迎える。福島県はまだ放射能の影響もあって、街を歩くと、移転して空き家になった商店や飲食店が至る所で目につく。スポーツの環境もまだ簡単に元通りにはならないだろう。だが、Tさんのような人を見ていると、どこか力がわいてくるような気がした。被災地を復興させるのは、やはり、人間の情熱と意志なのだ。

筆者プロフィール
滝口氏バックナンバー
SAバックナンバーリスト
          
無料購読お申し込み

advantage
adavan登録はこちら
メール配信先の変更
(登録アドレスを明記)
ご意見・ご要望

Copyright (C) 2004 Sports Design Institute All Right Reserved
本サイトに掲載の記事・写真・イラストレーションの無断転載を禁じます。  →ご利用条件