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vol.657-1(2015年11月26日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−16
 そして深いダメージが残った

 2015年は負の歴史に深く刻まれる年になってしまうかもしれない。競技団体、スポーツ関連団体の深刻な不祥事が世界中で相次いでいるのは、いったいどうしたことか。スポーツへの信用、信頼が音を立てて崩れていくのが目に見えるようだ。
 国際サッカー連盟の汚職事件はどこまで広がっていくのか。ブラッター会長、プラティニ副会長をはじめ、トップが次々とさまざまな関与を指摘され続けていくのには、ただあきれるほかない。捜査がどこまで進むのかはまだはっきりと見えていないが、底知れぬ腐敗、金権体質が全体を覆っていたのは明らかだ。往年の名選手の名前が汚職という文字とともに登場するのは、ファンとしてはなんともやるせないことだろう。

 国際陸連のディアク前会長とその周辺はドーピング隠蔽にからむ収賄などの疑いでフランス司法当局の捜査を受けている。ケニア陸連では幹部の協賛金着服が浮上し、やはり捜査が行われている。オリンピックのメーン競技ともされる陸上で、こともあろうに最高責任者がドーピング隠しの張本人と名指しされたのだ。スポーツ界に与えたマイナスは計り知れない。
 そしてロシアのドーピング疑惑である。世界反ドーピング機関(WADA)が、ロシア陸上の組織的なドーピングを報告した問題は、五輪などへの出場停止にも発展しかねないだけでなく、これもまたきわめて深刻なダメージをスポーツ界全体にもたらすことになる。かつてソ連・東欧圏などで行われていた国ぐるみの薬物使用を思い出させる構図は、「何年もたったのに、結局、何も変わらなかった」という深い失望と軽蔑を世界中で引き出すに違いないからだ。
 なぜこれほどひどい状況になってしまったのか。金権腐敗への答えははっきりしている。この欄の第4回で書いたように、スポーツそのもの、競技そのものが巨大ビジネスの手段に成り下がってしまったのが、こうした腐敗を生んでいるのである。

 スポーツ大会の主役はといえば、言うまでもなく競技であり、選手でなければならない。ところが、巨大な利益をもたらすメジャースポーツのビッグイベントはすっかりビジネスの場となり、競技は単にカネを生むための手段となってしまったような印象がある。利益が出ればさらにそれ以上を求めるのが経済の論理だ。それをある程度コントロールするのがスポーツの側に求められるのだが、実情はといえば、まったくその役割を果たせていない。それどころか、目の前に現れた巨額のカネに目がくらみ、スポーツの誇りや尊厳など忘れ果ててビジネスの前にひれ伏している観さえある。となれば、選手や競技そっちのけで私腹を肥やすことにもなるだろう。
 もはやスポーツ人の手で立て直しを行える段階ではない。他の分野から組織運営に高い能力を持つ人材を招き入れ、厳しい監視態勢を構築して透明性を確保したうえで、一から再出発を図るほかに道はない。元選手やスポーツ一筋で来た者に、大組織を適正に運営する力がないというイメージを世の中に与えてしまったのは、実に残念なことだ。

 ロシアのドーピングの方はまた違う。国ぐるみの疑いが事実とすれば、国威発揚や政権の権力基盤強化のためにスポーツを道具として使うというゆがんだ方向性が、またしても大手を振って現れ始めたと言わねばならない。こちらの方を正すのは、金権腐敗の場合よりさらに難しいだろう。これもできること、すべきことはただひとつ、各国のスポーツ関係者やIOCをはじめとする各スポーツ団体が、そうした方向は断じて認められないという強い姿勢を示し続けるしかない。

 ビジネスの成功はスポーツの繁栄に欠かせない。国家のバックアップも時にはあっていい。要はバランスなのだ。スポーツの本質や独立性、純粋性を保ちつつ、ビジネスや国家との間で微妙なバランスをとっていくという理念と手腕が、いまのスポーツ団体幹部には求められているのである。そんな人材が各競技にいるかどうか、はなはだ疑問ではあるのだが・・・。

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