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vol.637-1(2015年6月10日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−4
 「第一義」はカネじゃない

 国際サッカー連盟(FIFA)を根底から揺るがす大激震を見るにつけ、つくづく思う。スポーツという本質をどこかに置き忘れてしまえば、取り返しのつかないゆがみ、ひずみが必ず生まれるということだ。オリンピックについてもまったく同じであることは、もちろん言うまでもない。
 それにしてもFIFAの底知れぬ腐敗にはあきれるばかりだ。何をするにも巨額の賄賂が飛び交い、幹部たちは平気で私腹を肥やし、しかもそれが半ば当たり前のようになっているという状況ではないか。真剣に競技に取り組んでいる世界中の関係者、また熱心なファンたちは怒りに震えているだろう。ただ、その一方ではまた、「ああ、やっぱりこうなっていたのか」という思いもあるに違いない。

 サッカーといえばW杯。「世界で最も人気のある大会」「世界最大のスポーツイベント」などのうたい文句で飾られる夢の祭典は、だが、回を追うごとに「スポーツ」から離れていっているように思われる。一番大事なはずのサッカーそのものが主役の座から離れ、単に巨大ビジネスのための手段、材料となってきているのだ。時には、そこに開催国の国策や政権の思惑も入り込んでくる。4年に一度、世界中のチームがそれぞれに磨き上げた技と個性を競うという、スポーツ大会としての本質はわきへ押しやられ、カネや開発が第一義となったのである。さらに、開催国や地元の都市の経済的負担も、以前とは比べものにならないほどに膨れ上がっている。いくら華やかであろうと、いくらもてはやされようと、そこに疑問を感じるファンは少なくあるまい。
 そのことを、これ以上ないほど明快に見せつけたのが、昨年のブラジルW杯だった。大会そのものはいつに変わらぬ形で終わったのだが、開幕前にブラジル各地で行われた抗議行動は、まさしく現状への疑問が噴出したものと言っていい。「福祉や教育が不十分なのに、W杯の新競技場建設に巨費を投じるのはおかしい」という国民の抗議。世界で最もサッカーを愛している国のひとつで、待ちかねた自国開催を前に「NO!」の声がわき起こったのは、誰もが「この現状はおかしい」と感じないではいられない状況であることを示している。
 そうした路線を先頭に立って推し進めてきたのがFIFAだった。より豪華で華やかな大会を求め、最新技術を駆使した巨大スタジアムの新設を開催地に要求してきた。財政最優先、まずビジネスありきの姿勢は、最近の開催国選びにも如実に現れている。FIFAの中枢を占めるサッカー人たちも、サッカーをカネを生むための手段としか思わなくなっていたのではないか。となれば、この底なしの腐敗が組織内に蔓延していたのもうなずけるというものだ。

 オリンピックとIOCにもまったく同様の過去があった。ソルトレークシティー冬季五輪招致をめぐる利益供与などが発覚して多くのIOC委員が除名となった大スキャンダル。これを受けて、委員の立候補都市訪問が禁止されるなどの再発防止策が講じられた。オリンピック精神を守らねばならないという建前もあって、こうした不正体質はいまのところ抑え込まれているように見える。とはいえ、巨大ビジネスや国策に否応なく組み込まれている点に変わりはない。IOC委員に、自分たちの利益追求を第一とする風潮があるとの指摘もしばしば聞く。腐敗や不正の体質が完全に消えたとは言えない。

 まずは原点を振り返りたいと思う。W杯もオリンピックも、スポーツの純粋な楽しみ、喜びのためにつくられたのではないか。時代に合わせた変化は当然だが、原点、出発点をあまりに逸脱するようであれば、必ずどこかにゆがみが生まれ、いずれは行き詰まることにもなる。スポーツという本質をないがしろにしてはいけない。いかにも建前、きれいごとのように聞こえるかもしれないが、その思いはゆがんだ現状を正す力となり得る。それが、世界中のスポーツファンの素朴な願いでもあるはずだからだ。

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