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vol.664-1(2016年2月4日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−21
  一人の漕艇人が体現していたもの

 二度のオリンピックに足跡を残した偉大なスポーツマンが亡くなった。偉大という表現は軽々しく用いるものではないだろうが、ここでは迷いなく使いたい。堀内浩太郎さんはその言葉にふさわしい人物だったと思う。
 小学生のころから父の指導でボートに親しみ、旧制二高、東大ではエイトでインターハイ、全日本選手権優勝を経験。社会人となってからもナックルフォアで3回の国体優勝を飾ったが、漕艇人としての真骨頂は指導者になってからにあった。1956年に東北大監督に就任し、エイトのクルーを1960年ローマ五輪の代表にまで育て上げたのだ。ここでは、できる限りオールで水を長く押す「超ロングレンジ漕法」を編み出して世界に迫る力を引き出した。結果的に決勝進出はならなかったが、予選、敗者復活戦ともに欧州の強豪と互角の戦いを繰り広げたことは、まさしく歴史に残る健闘と言っていい。敗者復活戦では1位となったイタリアに1メートルの差にまで迫っている。強豪ひしめく決勝進出までは、文字通りあと一歩だったのである。
 その四年後、東京オリンピックでは実際の指導を担うコーチとして各大学からの選抜クルーを率いた。それまでは選考会を勝ち抜いた単独クルーが五輪代表となっていた漕艇界。初の試みには反発も多く、この役割はなんとも難しいものだったと言わねばならない。結果としては予選敗退となったが、選抜クルーをまとめ上げ、周囲に有無を言わせぬ力を持つまでに育てたのは、経験も理論も指導力も、さらに人格も抜きん出ていたこのコーチあってこそだった。
 欧米に対して常に体格のハンディを負う日本のボート。強豪国に比べれば歴史も競技人口も及ばない。それでも、さまざまな課題や苦境を乗り越えて世界に迫ってみせた。後に続く者たちに勇気を与え、希望をもたらした。日本の五輪史の中で声高に語られることはないけれど、この指導者が残したものはけっして小さくなかったといえるだろう。
 何度か会っていろいろと話を聞いたのは、堀内さんが八十代に入ってからだったが、何より印象的だったのはその豊かな人間性だった。工学部出身で、ヤマハ発動機に勤務していた時にはボート設計の第一人者として名を馳せたほどの学識と、誰よりも漕艇技術を熟知した競技者としての情熱を併せ持つという稀有な存在。人と接する時は率直で紳士的な態度を崩さず、実績や聡明さをひけらかすことなどいっさいなかった高潔な人柄。自らボートを漕ぎ続け、八十代後半まで世界マスターズなどに出場していたように、愛する競技を楽しみ、突き詰めていく純粋な姿勢もずっと変わらなかった。どの面をとっても、幅広く、豊かだった。いつまでも若々しく、生き生きとしていた眼差しと、長年オールを握り続けたことを示す、大きくてごつい手。言ってみれば、堀内浩太郎という人物は、かつてのアマチュアスポーツの世界、すなわちもっとスポーツが素朴で純な時代の「良きもの」を体現していたスポーツマンだったように思う。

 古き良き時代を象徴するものとは、すなわち、いまの時代が失いつつあるものでもある。時代が変わればスポーツや競技者の姿も変化していくのは当然だ。が、いまのスポーツ界に、これほど豊かな人間性を感じさせる人物が何人いるだろうと考えると、ちょっと寂しくもなる。巨大ビジネスとしてスポーツが栄え、選手たちの多くもプロ的に競技のみに専念する現在だが、だからといって、かつての良きものをすべて忘れ去ってしまっていいということではない。それではスポーツ本来の味わいや魅力もしだいに薄れてしまうことにもなるだろう。
 一月末に八十九歳で亡くなった堀内さん。その足跡やいろいろと聞いた話を思い出すにつけ、いまのスポーツ界のありように自然と思いは移っていく。現在のオリンピックやオリンピアンのあり方についても、これでいいのだろうかと考えないではいられない。堀内浩太郎さんが体現していたものは、二十一世紀の「五輪の風景」にも生きていてほしいと強く思う。

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