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vol.671-1(2016年3月30日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−25
  「聖火台」はそれほど大事か

 新国立競技場の建設案から聖火台が抜け落ちた形になっていたことが大問題として指摘された。数々のトラブルに続く失態だというのである。確かに東京オリンピック開催準備が抱えるさまざまな問題点を象徴する出来事のひとつではあるだろう。ただ、これは建設案のつくり直しや計画推進の大幅遅れのような、オリンピック開催そのものをゆるがす大トラブルではない。内幕を詳しくうかがい知ることはできないが、少なくともそれほど騒ぐまでもないように思う。
 2020年開催のための競技場新設なのだから、聖火台を建設案に含んでおかねばならないのはもちろんだ。しかし、あくまで建前をいえば、長く日本のスポーツの中核となっていくべき競技場と、半月で終わる五輪大会の聖火台とは別に考えるべきものだし、昨今の大がかりな聖火点火セレモニーを考えると、そのための設備を大会後もずっと維持していく必要もない。また、これも近年の傾向からすれば、聖火に関連するセレモニーはその瞬間まで極秘となっていくのだから、建設案に明記できるはずもない。したがって、本来、建設案に聖火台関連の設備が明示されていないのは当たり前ともいえるのである。
 当然ながら、計画案に明示されていようがいまいが、裏ではそれをちゃんと織り込んでおかねばならない。今回の関係者の反応をみると、そこはきちんと詰められていなかったようで、その点では大いに批判されるべきだ。文科省、組織委員会など関連組織の連携がうまくいっていないのも見てとれる。いずれにしろ反省が必要なのは間違いない。とはいえ、全体を俯瞰してみれば、これをことさら大失態と言い立てるのもいささか的外れのように思われる。
 それより気になるのは、関係者もメディアも、相変わらず聖火にまつわるすべてをとてつもなく重要なことのように思い込んでいるように見えるところだ。なんの疑問も持たずにそう思い込んでいるのである。
 開会式の聖火点火はオリンピックのセレモニーのひとつに過ぎない。ところが近年の大会では、それが大がかりにショーアップされるのが当たり前になってしまっている。開会式そのものがやたらと派手で豪華で長いショー仕立てとなっているのは、簡単に言ってしまえばオリンピック・ビジネスのためであり、スポーツの祭典たるオリンピックの本質を考えれば、さほど重要なこと、不可欠なものとはいえない。「カネがかかりすぎる五輪」のひとつの象徴でもある。とすれば、聖火の点火は確かに開会式のクライマックスだが、ことさらに巨費を投じてショーアップするべきものかどうかは、あらためて見直してみるべきではないのか。
 振り返ってみてほしい。1964年東京大会の聖火点火はきわめてシンプルな形で、秘密も何もなかった。しかし、あの大会を知っている人々は(その後、映像などで見たという人も含めて)、いまも簡素ながら感動的だったシーンを印象深く記憶にとどめている。一方、最近の大会はどうか。それぞれにカネのかかった工夫をこらして新たなアイディア、度胆を抜くような仕掛けを競っているが、果たしてそれがどれほど記憶に残っているだろうか。「どうだ、すごいだろう」と力めば力むほど、その瞬間に驚きはあっても、忘れ去られるのもまた早いのではないか。
 カネばかりかけてごてごてと飾り立てるより、シンプルでも感動的な、オリンピックにふさわしいと人々が感じるような形の方がずっと人々の印象に残る。開会式も、そのクライマックスたる聖火点火セレモニーも、本当はそういうことなのだ。だが、豪華なショーに慣れてしまった者たちは、関係者であれ観客であれ、そのことに気づこうともしない。聖火台問題を一大事として騒ぎ立てる風潮は、いまのオリンピックのあり方になんの疑問も持とうとしない傾向をそのまま表しているように思える。

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