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vol.691-1(2016年10月13日発行)

佐藤次郎 /スポーツライター

「五輪の風景」−40
  指摘にこたえるのは「義務」だ

 競技会場新設の見直しをめぐってTOKYO2020が揺れている。この問題がどう推移していくか、現時点ではまだはっきりしていない。ただ、ひとつ言えるのは、「オリンピックのためだから」ですべてが通る時代はもう終わっているということだ。
 小池百合子都知事の就任で設置された都政改革本部の調査チームが、2020年東京オリンピック・パラリンピックの準備状況を検証した中間報告。検証の対象は経費や組織など多岐にわたっているが、最も注目を集めたのは、都が新設予定の3競技会場について見直しを求めた点だった。水泳のオリンピックアクアティクスセンター、ボート・カヌーの海の森水上競技場、バレーボールの有明アリーナの建設を見直し、それぞれ既存施設利用などの可能性を探るべきだと提言したのである。
 これには組織委員会や関係競技団体が強く反発した。国際競技連盟(IF)と国際オリンピック委員会(IOC)が承認し、建設計画は既に動き出している。しかも本番までもう4年を切っている。ここから会場を変更するには、あらためてIFとIOCの承認を得たうえで、短期間で施設整備を完了させねばならない。それを考えれば、「時間をかけて練り上げたものを、なぜいまひっくり返すのか」と猛反発が出るのも当然だろう。
 が、ひとつ忘れてはならないことがある。これは、大会経費が際限なく膨れ上がりつつある異常事態を正すために行われた提言の一環なのだ。調査チームは最終的に総額で3兆円を超える可能性があると指摘している。「オリンピックのためだから」「半世紀ぶりの自国開催だから」「レガシーを残すべきだから」などといって、招致時点での予算をはるかに超える経費増をそのまま認めるわけにはいかない。さまざまな事情があったとしても、都民、国民の理解を得られないような状況があるのなら、それは可能な限り正されねばならないのである。
 オリンピックというと、夏冬を問わず、驚くような巨費が投入される場合がままある。場合によっては国威発揚のため、また都市再開発のために巨額の費用が投じられ、大会そのものも巨大ビジネスの場として豪華さを増していく傾向が強かった。近年までは、どこの国であれ、オリンピック開催には「カネがかかって当たり前」の意識があったように思う。
 だが、ここ2−3年でそれが急速に変わった。変化がはっきり示されたのは2022冬季大会選びで、欧州の有力候補都市が次々と招致を取りやめ、結局は北京とアルマトイしか残らなかった時だ。2024年夏季大会の招致レースからも、まずボストン、ハンブルク、最近になってローマと、有力候補が相次いで撤退した。「経費増に対して市民の支持を得られない」「過剰な負担を背負いたくない」と、いったんは招致に動いた都市があっさりとオリンピックに背を向けるようになったのである。
 オリンピックが特別だった時代は終わった。もはや、そのためならたいがいのことは許された「聖域」ではなくなった。もうひとつ、つけ加えておけば、IOCについても同様だ。以前は「IOCの言うことは絶対」の意識が、大会を招致する側にあった。日本ではことにその傾向が強かったように思う。そこで、どの大会でも、すべてに最高最上を求めるIOCの意向に従って、ますます経費が膨らんでいったという側面もあった。だが、いまやIOC自身が、経費節減を進める方針を「アジェンダ2020」で打ち出している。「カネがかからない大会」実現のための会場変更なら、IOCに対しても堂々と主張を展開すればいい。「IOCは絶対」の時代もまた、もう終わっている。
 そう考えると、やるべきことはおのずと定まってくる。都民、国民の理解が得られない状況があり、その指摘があったのなら、できる限りそれにこたえていく義務が準備組織側にはある。そもそもカネの使い方が妥当な範囲を超えていると判断されたのなら、「いったん決まったことはもう覆せない」などという言い訳は通用しない。「オリンピック」や「IOC」を万能の盾として批判をはねのけようとする姿勢は、もはや許されない時代なのだ。

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