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100号記念メッセージ

■vol.140 (2003年4月2日発行)

【杉山 茂】企業の理解得る“スポーツの姿勢”を
【岡 邦行】復活なるか、日大アメフト部
【早瀬利之】日本ゴルフツアー機構(JGTO)の新役員とPGAへの注文
【岡崎満義】力士の怪我の多さで考えること


◇企業の理解得る“スポーツの姿勢”を
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)

ようやく鎮火へ向かいはじめたか、と思えた「企業スポーツ」の撤退、縮小が、ここへ来て、アイスホッケーのコクドと西武鉄道の合体正式発表、アメリカン・フットボールのレナウン・ローバース廃部などと、火の手が再び上がってしまった。いずれもビッグネーム、ショックは大きい。

多くのスポーツ団体は、ここ数年、手の施しようがなく、有力な代案を見つける動きにも乏しい。

企業における“スポーツの位置”の低さに、愕然とするばかりなのだ。

企業の関係者に話を聞くと、一様にこれまでのスポーツ側の対応の拙さを、指摘する。 改めて、書くまでもないが、寄りかかり体質、すがり体質が総てで、企業の“熱心さ”に頼る年月だったのだ。

このままでは、日本のスポーツは、下り坂を転がるばかりである。

企業がスポーツを支援する、という日本独自で貴重なシステムを、いかに“再生”できるかを考えるべきである。

企業依存の時代は終った、と突き放すマスコミの論調に流されるのはなく、スポーツ界は、しっかりとした理念を築き、健全なバランスシートを組み立てなければ、いけない。

国際的なトップゾーンでの活動を保つには、組織的にフルタイム環境を整えなければならないとは聞きあきたし、書きあきた。

相変わらず、そのために、の方策が、日本には乏しすぎるのである。

しかも、この期に至って、まだ、それがよく見えない。

競技者たちの健気(けなげ)な活動で、その場その場を切り抜けているだけでは、少々の好転があっても、すぐに、暗転のときを迎えてしまう。今回のような事態は初めてではない点が悔やまれる。

企業が、スポーツをまったく遠ざけているとは思えない。

不景気を脱しても、2度とスポーツには関りたくない、との声が高いと伝えられもするが、それは「旧態のスポ−ツ界ならば」というニュアンスが込められている。「企業の勝手」と嘆く前に、スポーツ界は、これまでの自らの勝手を振り返るべきだ。

企業に乗り出してもらえるスポーツ理念、それは、社会の支持を得るに同意語だ。

その部分の欠落を、スポーツ界が自覚しないかぎり、危機は脱せない−。

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◇復活なるか、日大アメフト部
(岡 邦行/ルポライター)

<篠竹監督が退任 日大アメフト学生王者に17度>−3月31日付の朝日新聞夕刊は、そう報じていた。

日大アメリカンフットボール部の篠竹幹夫監督は、大学側が体育会系運動部監督に導入した「70歳定年制」の適用により、3月31日付で退任が決まった。

正直、この記事を目にした私は「ついにやったか!」と思った。なぜならば、篠竹監督は“名物監督”“カリスマ指揮官”として知られていたが、同時に38運動部からなる日大体育会系運動部の“恥部”ともいわれていたからだ。

3年前に大学側が「70歳定年制」を導入したのも、昨年8月に亡くなった日大ゴルフ部の竹田昭夫監督と篠竹監督を一刻も早く退任に追い込むためのものだったという。そう大学関係者は囁いていた。

かつて私は、竹田監督と篠竹監督をインタビューしているが、たしかに両氏には名物監督、カリスマ指揮官の心意気を感じた。亡くなった竹田監督はともかく、篠竹監督は私を前に高笑いでいったものだ。

「昭和30年頃だ。私は“オール日大不死クラブ”を結成し、進駐軍のチームと戦っていた。試合前には“君が代”を歌い、水盃してな。要するに日本人のプライドを賭け、大男たちを相手にした。その大男たちを相手にいかに勝つか。それで私が考え出したのが“ショットガン・フォーメーション”だ。進駐軍の連中はいっていたな。『篠竹はアメフトをハンドボールにした』って。アハハ・・・」

「アメフトは人類最後のスポーツ、世界最大の格闘技。いや格闘技というより、小規模な戦争といったほうがいいな。野球も格闘技?そんなバカな。そういう者がいたらヘソで茶を沸かしてやるよ。アハハ・・・」

私が篠竹監督をインタビューしたのは89年。当時の日大アメフト部は、いわゆる全盛時代だった。関東大学選手権(パルサーボウル)、大学王座決定戦(甲子園ボウル)、日本選手権(ライスボール)を制し、なんと勝率は脅威の9割2分だった。篠竹監督は、こうも豪語していた。

「ウチの部には特待生制度なんかないから、いい選手はみんな他大学に行く。授業料払え、授業に出ろ、受験に合格しなけりゃ入学させない。そんな調子だから入部してくるのは2流の選手ばかり。つまり、そんな2流選手たちを1流にしてやりたいと思って、徹底的にシゴクんだね。アメフトの基本精神である“犠牲”“協同”“闘争”の精神を柱に、24時間選手たちと寝起きをともにして鍛える。アハハ・・・」

しかし、時は流れ、日大アメフト部が甲子園ボウルを制した90年を最後に日本一から遠ざかるにしたがい、私の耳にはつぎつぎとよからぬ話が聞こえてきた。

―実は日大アメフト部は学年ごとに25名の特待生枠を持っている。篠竹監督の天皇ぶりに業を煮やした日大系の附属高校アメフト部監督たちは、選手を他大学にやるようになった。生涯独身を通す篠竹監督は、毎晩のように合宿所で選手相手に麻雀をし、連戦戦勝でかなり稼いでいる。文理学部教授である篠竹監督は、体育実技の講義を4年生部員にまかせている―。

その他、活字にはできない噂話もあった。真偽のほどはともかく、そういった情報が飛び交っていたのは事実だった。

「篠竹監督の金銭疑惑が表沙汰になったこともありました。入学後に新入部員に献金を強要したと、退部した部員がマスコミに暴露したんです。2年前にチーム史上初の入れ替え戦に出場したのは、篠竹監督の横暴さに耐えられなくなった部員たちが脱走し、チームが弱体化してしまったため。とにかく、日大アメフト部は、他の部と違って異常でした。選手たちの父母たちが交替でグラウンドに足を運び、フルーツを用意するなど身のまわりを世話していた。監督にゴマをするためでしょう。グラウンドにあるクラブハウスも大学側の許可を得ず、勝手に父母たちが建ててしまった・・・」
とは大学関係者の話。

ともあれ、篠竹監督の退任で名門・日大アメフト部は生き返るか−。

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◇日本ゴルフツアー機構(JGTO)の新役員とPGAへの注文
(早瀬利之/作家)

日本ゴルフツアー機構(JGTO)の新役員が決まった。

チェアマンの島田幸作が留任し、エグゼクティブ・ディレクターの鈴木規夫、日下敏治と、常務理事の岡村健三が顧問となった。

代わりに、副理事長制が設けられ、関根謙一(警察大学教授)、諸星裕(桜美林大副学長)、倉本昌弘(日本プロゴルフ協会副会長)、松村光樹(日本プロゴルフトーナメント協会専務理事)の4人が就任した。

その他、専務理事に渡辺一美(前アクシネット・ジャパン会長)が就任して、島田理事長を除いた幹部が入れかわった。

実務面では、イーヤマKKに依存していた財源を、1998年まで実施していた(10%)トップオフ制(賞金の中から10%を運営の財源に)を復活した。なお、当初は10%のトップオフ制を考えていたが、選手会からの反対にあい、中間の5%で合意した。

今後は賞金の中から5%を前取りして、運営費に充当するが、それでも赤字財政になるもよう。

JGTOのスポンサーからの財源がカットされたことで運営の先行きはグレーになったが、なんとが5%の徴収でまかなう方針。早くも日本プロゴルフ協会(PGA)と一緒になって、経費を節約してはどうかという声が上がっている。

ただひとつ、PGAの会長が変わるたび事務所が移転する悪循環のPGA体質は、変えていかなければならない。仮に、ひとつになっても、JGTOは独立運営が望ましい。むしろ、JGTOとPGAは協力関係を深める事が先決と思う。

「小さな日本」がアメリカのまねをする必要はない。また日本版タイガー・ウッズを育てる必要もないが、若い選手が、のびのびと試合に出られる「個人主義」を助長する環境作りが急がれる。

ファンが、試合会場に足を運ぶ環境づくり、スポンサーやゴルフ用品会社が喜ぶ環境づくりを考えて欲しい。

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◇力士の怪我の多さで考えること
(岡崎満義/ジャーナリスト)

近年、大相撲では怪我で休場する力士が本当に多くなった。引退した貴乃花も、横綱の連続場所休場の記録をつくったりした。

原因はいろいろあげられている。魚中心のチャンコ料理が嫌われて、肉中心の洋風の食事なったこと、体重が増えすぎて膝に負担がかかりすぎるようになったこと、稽古が足りない、とりわけ四股、鉄砲が減って、近代的トレーニングジムに通ったりする者が増えてきたこと、大型化した力士同士のぶつかり合いで、肉体的な衝撃が大きくなったこと−それぞれ、なるほどそうだろうな、と思わせる理由だ。

先頃、朝日新聞夕刊「音楽展望」に、評論家の吉田秀和さんが「歩き方は語る」という面白いエッセイを寄せていた。文学・音楽・絵画にくわしい吉田さんは、知る人ぞ知る大の相撲通である。

「…花道から土俵に向かって歩いてくる力士の動きが昔とずいぶん変わっているのに気が付いた。特に足の運びが違う。 かつては両足を斜め外側に向けて、股から膝、膝から足とがっしり重心のかかった動きでずしりずしりと地面に食い込むように歩いていたものだが、今見ている力士は膝の曲がりも少なく、脚全体が一本の棒のようによく伸びて、すたすたと真っすぐに前に進む」

力士の姿格好、歩き方が変わってきたのだから、相撲のとり方も変わって当たり前で、変らなければ、むしろ変だ。近頃、上位力士にも怪我が多いのは、そういった事情とも絡んでいるのではないか、と吉田さんは推理している。

私が力士の脚がスラリと長くなった、と感じたのは、昭和39年九州場所、東十両筆頭で優勝した北の富士を間近かで見たときだ。それまでも大起、不動岩、大内山といった、のっそりとした大型力士はいたが、基本的な体型は昔ながらの“胴長短足”という印象だった。

脚の長い北の富士の出現が、吉田秀和さんのいう力士の「歩き方」が変わるハシリだったような気がする。そのとき、北の富士の同期生に、玉の海(当時は玉乃島)がいて、この力士は背も低くずんぐり型四つ相撲の古風な正統派だった。

2人とも横綱になったが、さてこのタイプの違うどちらが大横綱の道を歩むようになるだろうか、と楽しみだったが、玉の海は横綱になって間もなく、若くして亡くなったのは残念だった。

吉田さんの文章を読みながら、昭和の名横綱といわれた双葉山が、晩年にあらわした『相撲求道録』の中に、歩き方について記述していた箇所があったことを思い出した。

親方の玉椿が現役時代は家の中を歩くときでも、土俵に直結した「足の訓練」を忘れず、「バタバタ脚では駄目だ。すり足ではなくては駄目だ」と口やかましく注意された、と双葉山は回想していた。

そして双葉山は面白い体験を紹介している。

「戦時中の勤労動員のさい、実はわたしどもも、靴をはいた経験があるのです。これは力士としては大変なことでした。今まで靴をはいていなかったものが、にわかに靴をはくことによって、それは自然に親指の『ふんばり』に影響してきました。そのために土俵での『さぐり』が鈍くなってきたことは事実です」

「土俵での『さぐり』」とは、何と微妙で、刺激的な言葉だろう。

吉田さんは「歩き方というものは身体の外側の出来事(?)というものではなく、身体の奥で起きること、その深いところに存在しているものと結びついている」とも書いている。

この言葉と双葉山の言葉を重ね合わせてあれこれ考えていると、最近の力士の怪我の多さは、単純なことではない、ということに気づかされるのだ。

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