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100号記念メッセージ

■vol.147 (2003年5月21日発行)

【今城力夫】 アテネをオリンピックの恒久開催地に
【松原 明】  シアトルの空席
【佐藤次郎】 夜の競技場のひそやかな輝き
【杉山 茂】  スポーツマーケティングの“開祖”マコーマック氏逝く


アテネをオリンピックの恒久開催地に
(今城力夫/フォトジャーナリスト)

2004年8月11日からギリシャのアテネで開催される夏のオリンピック大会の入場券が早くも5月12日から売り出された。

近代オリンピック第一回大会が1896年にアテネで開催され、久しぶりにアテネに戻っての開催は嬉しい。

私は1996年の百年祭大会がアテネで行われることを強く望んでいた一人だったが、しかし、残念ながら米国アトランタの開催となった。

実は、私は、オリンピック大会を毎回場所を変えることなく、基本的にはアテネで毎回行うことを考えたらどうかと思っている。

オリンピックも1984年のロサンゼルス大会あたりから商業化され、クーベルタン男爵が組織した当時の国際オリンピック委員会(IOC)の精神も失われてしまった。

初開催地であるアテネに各国の援助を得てしっかりしたオリンピック施設を造り、けばけばしくない純粋なスポーツ大会を開催したらよいように思う。

1988年のソウル大会の際に国際オリンピック・フォト・プール(IOPP:オリンピック憲章で認められた国際通信社で組織された当時の写真代表取材のこと)の役員をしていたため、かなり早い時期から会議などで現地へは何度も足を運んでいた。

そんなわけでファン・アントニオ・サマランチIOC会長(当時)のスポークス・ウーマンであったミッシェル・ベルディ女史とも顔を合わせる機会が何度もあった。

知人でもあった彼女には、オリンピックの件でも私はざっくばらんにいろいろなことを言っていた。

ある日、夕食を共にした際に「百年祭のオリンピックは何としてもアテネで開催されるべきだ」との主張を彼女にしたことがあった。

ベルディさんは「アテネは当時経済的問題のみならず、治安の問題も憂慮しなければならないし、IOCとしてアテネはあまり有り難くない」旨のことを、私にした。

私は畳みかけるように「オリンピック大会は今後常時アテネ開催にしたらよい」というのが、実は、私の主張でもあることを伝えた。

彼女はオリンピック開催がいろいろな国や地域で行われることは、その場所の経済の発展や活性化を促すために大いに役立っているのだ、と私の主張に反論していた。

オリンピック開催地には多くの国々から選手だけでなく大勢の人達が集まり、他国を理解する機会を与えたり、国際交流の役割も大いに果たしたりすることであろう。

しかし、前回のワールドカップ・サッカー大会で新設した競技場ですら、我が国ではその後の維持に苦慮しているのが現状だ。最近は陸上やサッカーのみならず、それぞれのスポーツ大会が非常に充実し大きくもなっている。

オリンピック開催地を固定して、商業主義に走らないオリンピック大会は出来ないものだろうか。

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シアトルの空席
(松原 明/東京中日スポーツ報道部)

シアトル・マリナーズの取材でセーフコ・フィールドへ着いて驚いたのは空席の多いことだった。

特に外野席はガラガラで、連日「チケットあります。2万枚」のアピールが電光掲示板に出ている。この2年間ではなかった現象だ。

「ヤンキースが来れば」と、フロントが期待した通り、第6節はようやく4万人の大入りが続いたが、大リーグの観客離れは深刻だ。

イラク戦争の影響によるテロの不安に重ね、シアトルは地区経済を支えていたボーイング工場のシカゴ移転が町の活気をなくした。町には失業者があふれ、物乞いをする男女も見かけた。「全米1の野球都市」と賞賛された、あの熱気がない。

チームは優勝を争う好ダッシュ。選手もそろっているが、魔術師のように快打を飛ばしていたイチローも、3年目の壁に当たり、まだ3割を超えない(※5/12現在)。チーム全体もファンを引き寄せる魅力がない、など、数多くの動員減の要員はある。

ともかく、寒い。

テレビでお分かりのように、ファンはまだコートを着ての観戦。これは東海岸地区も同じ。スターをそろえ成績抜群で松井の加入で話題抜群のヤンキースでさえも、まだ、一度も5万人の大台に乗ったことがない。

どの球団もチケットを値上げしたため、大リーグを一家そろって観戦するのは相当の出費になる。かつては、毎日行くこともできたが、週1回で我慢するファンも少なくない。

経営難のため、スターを放出した、ブレーブス、イアンディアンスらはファンに見放されて大幅減少。前途多難である。

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夜の競技場のひそやかな輝き
(佐藤次郎/スポーツライター)

思いがけないところに、思いがけない光がある。スポーツとはそういうものだ。

人気の高い競技や、一流選手の華やかな大舞台に限ったことではない。

たとえば−−。東京・江戸川にある陸上競技場の夜。そこは時間によって一般にも開放されており、夜になると働きながら競技に取り組むアスリートたちがやって来て練習に励む。

その日は細かい雨が降り続いていて、晩春とは思えないほど肌寒い天気だった。それでも、彼らは薄暗い照明のもとで黙々と走っていた。

仕事を終えてからあわただしく練習場所に駆けつけねばならない立場の者たちは、場所や時間や天候を選ぶわけにはいかないのである。
 
なにげなく見やっていたトラックに思わず引きつけられたのは、二人のランナーが並んで走ってきた時だった。彼らは文字通り、きびすを接していた。

輪にした短いひもがお互いの手をつないでいた。視覚障害を持つ短距離走者と、その伴走者の練習である。
 
マラソンの伴走はよく知られているが、スプリントの場合はさらに難しいに違いない。視覚障害選手の百メートルの日本記録は、そのクラスにもよるが、だいたい11秒台半ばに達している。

何も見えない闇の中を、その高速で疾駆するのである。

もちろん伴走者はそれより速くなければならない。そして、なにより二人の呼吸が合っていなければ、手をつなぎ合った不自由な体勢のまま、百メートルを11秒台で駆け抜けることはできない。
 
その夜の二人は、軽やかに、だが力強いストライドで何度もトラックを駆け抜けていった。二人の息はよく合っていて、長い時間をかけてこの困難な走りをつくり上げてきているのがよくわかった。

障害があっても、競技者の一人として自らのスプリント能力をできる限り伸ばしていこうとする強い意志。自分が走るのと同様の熱心さで、陸上の仲間に手を貸そうとする温かい心。

そのふたつが固く結びついているのがトラックから生き生きと伝わってきて、見る者の心を引きつけるのだった。
 
軽いダッシュではあったが、きれいにシンクロする疾走には、高いレベルで戦おうとする競技の熱があり、また一方には練り上げた技の深みも見えた。

彼らが走るたびに、薄暗い競技場のそこだけに光が流れるようだった。
 
その夜、伴走者とともに走っていた選手は、11秒62という視覚障害のB1クラスの日本記録を持つ30歳のランナーだった。彼は東京の陸上クラブ「AC KITA」に所属している。

このクラブには他にも障害を持つ選手が何人もいて、それぞれに健常者とともに練習をし、試合に出ている。クラブのメンバーたちは、なんの分けへだてもなく障害者ランナーたちと一緒に活動し、必要なら手助けをする。
 
スポーツ・ブームの世の中でもてはやされているのは、人気競技の有名スターたちである。

ただ、暗い雨の夜に助け合いながら黙々と練習する、あの二人のような選手たちがいるからこそ、スポーツというものは輝きを増すのだ。

そしてまた、この社会を地味だが大事なところで支えているのは、彼らのような人々に違いない。

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スポーツマーケティングの“開祖”マコーマック氏逝く
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)

「スポーツマーケティング」という分野を拓(ひら)き、確立されたマーク・ヒューム・マコーマック氏が、5月16日ニューヨークの病院で死去された。72歳(1930年11月アメリカ生れ)だった。

1958年秋、というから、44年以上も前になる。

弁護士として法律事務所で仕事をしながら、スポーツマネージメントという“小さな事業”を始めたマコーマック氏が、学生時代の知己アーノルド・パーマー(アメリカ)と契約して、その後の大成功へと躍進するストーリーの始まりは、今や伝説といってもいい。

パーマーは、ゴルファーとしてはプロフェッショナルだったが、自らの“商品価値”を押し出すことはなかった。

その時代のスポーツ選手にありがちな競技以外には関心を払うタイプではなかったのである。

マコーマック氏は、こうした選手たちに、競技以外から、富と呼ぶにふさわしい収入をもたらせた。

時代の風が、彼を後押しする。「テレビ」の世界的な本格化だ。

スポーツは、テレビプログラムにとどまらず、イベント(大会)にも、アスリートにも、スポンサーの注目を集めはじめる。

マコーマック氏にとって、スポーツ―テレビ―スポンサーの三角形は、魅力にあふれた(あふれ過ぎた…)新しい“市場”だった。

1960年に設立した「インター・ナショナル・マーケティング・グループ」(IMG)は、この市場のなかを、精力的にかけめぐり、スポーツを巨大な産業へと築き上げ、自らが、その盟主となって進んだのである。

マネージメントやスーパーイベントの放送権を手がけるばかりではなく、番組制作でも、次々とタイミングのよい企画を放ち、オリンピックを前に世界の有力選手のプロフィールやサイドニュースを集めて発信する「オリンピックへの道」、多彩、多様なコンテンツをまとめたマガジン番組「トランス・ワールドスポーツ」などは、代表的なプログラムだ。

国際オリンピック委員会(IOC)を動かして映像素材の管理・供給組織を設け、その運営を引き受けるなど、マコーマック氏自身の行動力が、グループ全体のセンスにつながっている。

私は、6年ほど前、都内のホテルのロビーで、たまたまお目にかかったのが“最後”になってしまったが、まだまだ、旧態のスポーツに、新しいビジネスの風を送りこむ意欲は充分、と見えた。

マコーマック氏の他界で、世界のスポーツマーケティングに激震が走ることも予想される。

それほど、同氏の存在は、大きかったといってよい―。

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