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■vol.172(2003年11月 12日発行)

【杉山 茂】 不安がのぞきはじめたドーハ・アジア大会
【早瀬利之】 宮里藍のプロデビューと、海外女子プロの出場で人気を上げたい男子ツアーのさみしい事情
【佐藤次郎】 さよならネルソン、僕らの憧れ
【中村敏雄】 「号泣」の対象が違う


不安がのぞきはじめたドーハ・アジア大会
(杉山 茂/スポーツプロデューサー)

 2006年、カタールの首都ドーハで行われる予定の第15回アジア大会の雲行きが、怪しくなってきた。

 日本オリンピック委員会(JOC)筋は「競技施設の準備が大幅に遅れているようだ」という。

 ドーハ大会は、51年に始まった大会の歴史で初めてアラブ圏で開かれるもの、注目と期待が集まっている(注・中東では74年の第7回大会をテヘラン(イラン)が開いている)。

 3年前、ドーハはニューデリー(インド)、クアラルンプール(マレーシア)、香港(中国)の3都市を抑えて開催が決まったが、招致活動のアピールでは、参加選手、役員の渡航費負担などを公約する熱っぽさで、国家の気合を感じさせていた。

 それが、もっとも基本的な状況でつまずきがのぞくとは考えにくい。

 これまで、不安がまったく無かったわけではない。昨年くれ、私は日本の有力エージェントの1人から、地元組織委員会のビックイベントに対する意識の低さ、知識の貧しさが心配、という声を聞いていた。テレビの国際映像制作力も大きな問題になりそうだった。

 現代の国際競技会は、その国のスポーツ界のパワーとは関係なく、さまざまな課題が投げかけられる。それを総て各関係者の満足を得られるように対応するには、質量ともに過大なエネルギーを欠かせない。

 その点で、ドーハが、戸惑いを見せ、その道に手馴れたエキスパートたちの心配を誘ったのは、想像に難しくない。

 だが、それでは、いつまでも、アジア大会の開催は限られた国と都市でなければだめなことになる。

 アジアスポーツ界のあすを考えれば、少々規模が縮小されても、アラブで開く意義を優先すべきではないか。

 前回(04年)の韓国・釜山大会でも、準備の遅れが指摘されつづけたし、来年のアテネ・オリンピックも競技場建設の遅れが、この期になっても報道される。タイムテーブルどおりには、進まないのが、現代スポーツイベント、と云えなくもないのだ。

 アラブ首長国連邦が今月末からサッカーの世界ユース選手権を開くなど、このエリアでの国際イベントへの意欲は高まっている。

 ドーハ大会は広域からの参加国による初の総合競技大会であり、さまざまな制約のあった女性スポーツが、アジア大会をきっかけに、新しく大きく発展する、とも伝えられた。

 代替開催地を探す時間を考えれば、“決断”までにあまり余裕はない、との見方もあるが「ドーハの意義」を、日本をはじめアジア各国はぎりぎりまで求めつづけて欲しい―。

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宮里藍のプロデビューと、海外女子プロの出場で
人気を上げたい男子ツアーのさみしい事情
(早瀬利之/作家)

 今週は、国内女子ツアーの伊藤園レディス戦に、高校3年生の女子プロ、宮里藍が、デビューする。世界で初の高校生プロのデビューに、日本中のゴルフファンの目が注がれる。おかげで、国際試合の太平洋マスターズへの注目はうすれた。

 私は今週の金曜日から、週刊誌のレポーターとして現地入りして、宮里プロを密着取材することになった。「週刊新潮」は4頁を予定することになり、こちらも力が入りそうである。また、トーナメント結果を、本欄でレポートします。

 ところで、宮里藍プロは、用具用品からウェアまで、全て、ブリヂストンと総合契約した。そこでちょっと気になるのは、これまで使っていたアイアンクラブを、ブリヂストンにかえることで、どういう結果が出るか、心配である。この1週間、みっちりと打ち込んだそうで、楽しみである。

 その一方で、男子のカシオワールドに、海外女子プロ2人の出場が決定した。ローラ・デービスに続いて、ソフィー・グスタフソン選手が出場することになった。ローラだけでは、本人もさびしい思いがするので、同じ欧州女子プロが参加するとなれば、ローラ自身、いくらかリラックスできて、いい成績が残せると期待する。

 不人気な男子ツアー界に波紋をなげる海外女子プロの出場で、主催者のMBCはなんとかテレビ視聴率を上げたいそうで、楽しみである。

 それにしても、男子ツアー界は海外女子プロの助っ人で人気を取り戻さなければならないとは、落ちたものだ。

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さよならネルソン、僕らの憧れ
(佐藤次郎/スポーツライター)

 ネルソン吉村が死んだ。11月初めのことである。あのネルソンが56歳の若さで逝ってしまったのだ。
 
 敬称もつけず、ぞんざいな言い回しになったのを許してほしい。丁寧に他人行儀な書き方をしては、この素晴らしいサッカー選手に寄せる親しみや憧れが薄れてしまうような気がするのだ。
 
 団塊といわれる我々の世代や、その少し下あたりのスポーツ好きは、ネルソンの名前を聞いただけでちょっと胸が熱くなるようなところがある。それほど印象的な存在だった。1967年に日系2世としてブラジルからやって来て、70年に日本国籍を取り、吉村大志郎となったが、ファンにとってはいつまでも「ネルソン吉村」だった。もちろん人それぞれではあろうが、当時のスポーツ好き少年に、もっとも好きな選手、印象的なプレーヤーはと聞いたとすれば、プロ野球や他のメジャー競技のスターを差し置いて、ネルソンの名を挙げる者は少なくなかったはずだ。
 
 そのプレーを一目でも見た者はもうひきつけて離さない選手だった。流麗なドリブル。フェイントで相手を軽々と抜いていく鮮やかさ。的確に守備陣をえぐるラストパス。すべてのプレーが柔らかく、鮮烈かつ華麗だった。そのころの日本サッカーにはまったくない動きであり、テクニックだったといえる。試合のグラウンドを見つめていると、まるで彼のいるところだけにスポットライトが当たっているような感じがしたものだ。
 
 彼が日本リーグや日本代表でプレーしていた60−70年代と現在とを比べれば、おそらくテクニックや戦術はいまの方がずっと上なのだろう。しかし、ネルソンには彼ならではの輝きがあったように思う。そのプレーひとつひとつには、スポーツの持つ楽しさや美しさや快い興奮が凝縮されていた。ブラジル仕込みのテクニックというだけではない何かが、ネルソン吉村のサッカーにはあったのである。
 
 それほどの存在でありながら、ふだんのネルソンはきゃしゃな体つきの、いつも柔和な表情をしている素朴そうな若者だった。そんな雰囲気がまたファンには好ましく思えた。とかく傲慢、狷介になりがちないまの選手たちにはない、さりげない爽やかさが印象的な選手だった。
 
 そしていま、あらためて思うのは、日本サッカーへの貢献の大きさである。ネルソン吉村に憧れてサッカーを始めた、あるいはサッカーを好きになったという当時の少年ファンは、それこそ大変な数に上るだろうと思うからだ。
 
 あのころ、校庭や空き地で草サッカーに興じていた少年たちはみな、ネルソン吉村ばりのフェイントを試みていたものだった。当時のサッカー界の大スターといえば、なんといっても釜本邦茂ということになるが、校庭でボールを蹴っていた一人としての実感からすると、仲間たちがより強く憧れていたのは釜本の豪快ではなくてネルソンの華麗さだった。彼はそれだけ、多くの人間をサッカーの世界にひきつけ、呼び寄せたというわけである。
 
 現役を退いてからはそれほど華やかなキャリアではなかったようだ。最近は表舞台に立つこともなかった。しかし、ネルソン吉村の名は日本のスポーツ界で長く語り継がれるべきものである。彼ほどにスポーツの魅力を生き生きと見せてくれた選手は、すべての競技を通じても、そうはいないだろう。

 現にここにも一人、そのなんともいえない魅力を忘れていない者がいる。30数年前、わくわくしながら競技場に急いだ日の胸の高鳴りは、いまもすぐに思い出すことができる。

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「号泣」の対象が違う
(中村敏雄
元広島大学教授)

 「十二番目の天使」(オグ・マンディーノ著、坂本貢一訳、求龍堂、01年刊)という本を読まれたことがあるだろうか。

 私はこれを読んだときから今に至るもまだ小魚の骨がのどの奥にささっているような感じが残っていて、早くこれを取り除きたいという思いと、グローバル化が進行しつつあるなかで本書が提出している問題が解決できるのかという思いとがからみ合って、「号泣」(後述)はともかく、できることなら品川区や荒川区などの競争中心主義の教育を進めている教育委員や教師からこの答えを聞きたいと思ったりしているところである。

 同書はわが国でも多くの読者を獲得したといわれており、著者のマンディーノ氏は1923年生まれ(だからもう80才)の「世界中で最も多くの読者をもつアメリカの人生哲学書作家」と紹介されているから、さしずめ現代のホレーシオ・アルジャ(「ブラック・ボーイ」(下)参照)のような人といってよく、そうであればこのテの作品はお手のものだろうし、訳者はもちろん彼の妻も出版社の編集者も社長もそろって「号泣」したそうであるから、著者としては十分に「してやったり」といえる作品に仕上がっているといってよいであろう。かくいう著者も「号泣」こそしなかったが、要所で涙ぐんだというのは述べておかなければならないことである。

 さてこの作品の主人公の一人は「コンピューター・ソフトの製造分野で世界第三位のミレニアム社の新社長」にヘッドハンティングされたジョン・ハーディング氏、もう一人は彼が新社長に就任するまでの僅かの間コーチすることになった地域のリトルリーグのプレイヤー、ティモシー・ノーブルというケタ外れに野球がヘタな(その原因は手術不能なところにある脳腫瘍で、しかも彼は医者からそれを告知されている)、しかしとても熱心に練習に参加する母子家庭の一人っ子で、この二人が野球を通じて相互交流を深め、最後の試合で彼が「初ヒット」を打ち、しかも仲間のヒットでホームベースを踏み、優勝して全員から胴上げされるという物語である。

 読者がこれをどのように読むかはともかく、子ども用のスポーツ小説で、野球技術の解説書でも、野球を利用した道徳教育書でもないとした上で、たとえば以下の文章を読んでどのような感想をもたれるだろうかというのが筆者の本論執筆動機である。

 バッティング練習で「一番最後に打席に入った彼(ティモシー)に、私は、できる限り遅いボールを投げたのだが、それを彼は、いつになってもバットに当てられない。あのぎこちない構え方と極端なダウンスイングでは、おそらくいつになっても当たらないだろう。あまりにもひどすぎてアドバイスのしようがない。『ティモシー』、私は言った。『頑張って練習さえすれば、お前だって、きっといい選手になれると思うぞ。他の選手よりも、ちょっとだけ余計に練習すればいいのさ。人間はどんなことでも、頑張れば頑張っただけ、うまくなれるんだ』」(111から112頁)。

 近年、わが国では「がんばらない」という本が書かれ、阪神大震災のときにも「ガンバレ!」は禁句と言われた。筆者らの研究会では30年も昔から子どもたちに「ガンバレ!」という教師は「いま君たちに適切なアドバイスができないということを暴露する行為」と断定して禁句にしている。
個別に詳述している余裕はないが、わが国のどの学級にも「日本のティモシー君」がほとんどすべての教科学習のなかに必ずいて、どの教師もが「ガンバレ!」では解決しない彼らと格闘している。それが「他の人よりちょっとだけ余計に学習する」という方法や習熟度別学級編成などで解決できないというのは戦後教育実践史がすでに明らかにしてきたことであるし、全国のどの運動部にもいる「日本のティモシー君」を抱えている教師やコーチはそれだけで十分に胃痛を倍増させている。

 このような彼らにこの「十二番目の天使」は具体的な何らかの解決策を示したか、ティバッティングを採用してみるなどの実験的な試行を行ったかなどという視点から再読してみると、主人公のティモシー君を不治の病人に設定して書かれたことの意味が鮮明に浮上してくる。

 つまりこの著者は初めからティモシー君をいいバッターに育てるということを断念、放棄した上でこの作品を書いたということになる。

 しかし、わが国の部活顧問やコーチはそれを断念、放棄しておらず、そうであれば「号泣」してほしいのは彼らや「日本のティモシー君」に対してでなければならないだろうと思うのである。

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